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Artの入口Top Welcome to a art life |
contentsTOP | 一点ものフアインArt、その1「水彩画」 Watercolor |
壁紙は東山植物園の星が丘入り口 ファインアート(fine art, fine arts)とは、 商業デザインと対極の純粋芸術。絵画・彫刻・建築などの造形美術。また、文学・音楽なども含めて広く芸術全般をいう。 純粋な芸術的価値を専らにする活動や作品を指す概念。直接職業に結びつきにく、芸術的な意図のもとに制作される美術。ヘアーデザイナーの描くヘアーデザイン画は×ですが、多様な表現が可能なホームページは、内容によりアートとして認められるだろうか? |
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他人を敬う いにしえの文化 |
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他人を意識する 学びすと |
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文は人なり エッセイ |
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余情の俳句 |
「感動」という言葉を味わったことがない | |
私の友人の言葉です。若いころの私は海釣りアユ&アマゴ釣りが好きで山海を走り回っていた。夜明けにかけて出かけるので、海や山奥の生物の一員として美しい地球を感じると同時に、人間の儚く小さな存在に気づいて、一つの開眼を体験した。 それは生き物への感慨であり、感慨を表現できる余情の趣のある俳句と水墨画の門を30代でくぐり、さらにつながるエッセイ、写真、陶器、水彩画、HP等で訴えて現在に至る。 近年はこのような道楽を許してくれた家族に感謝!しつつ、テニス、HP更新、水彩画が休日の趣味です。 |
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他人ファースト 自分セカンド |
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習い事「学びすと」は他人を意識することからスタートです。自分も他人のように「学びたい、できるようになりたい」と、人並みの教養を身に付けようとする謙虚な姿勢で、他人に合わせる一つの礼儀と言えます。この道は「他人ファースト自分セカンド」という「他人を敬う」慎ましく穏やかな環境です。しかし.自分ファーストな人には『他人のように」という謙虚さはないでしょう。 また俳句や水墨画は「余情」を精神として書き過ぎを戒めますが、社会のなかでも上から目線の大上段な構えや物言いを恥と感じて、そこから侘びさびの茶道や陶芸にも視野が広がります。 趣味は趣味の向こうにある自分以外の大きな世界「地球、自然、他人」に関心を持つことで、当サイトのTopページには、根っこで繋がり合うコンテンツが30以上にも増えました。 これはHP「他人を敬ういにしえの文化」が新しいArtに成りうるかの提起です。 |
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エッセイもののあわれ 1993 | |
雨脚が激しくなったので私は釣りを中断して岸辺の林のな かへ雨宿りに入った。渓谷は山が迫っていて日暮れが早く、 まだ四時なのに辺りは谷間は消入りそうに薄暗い。 林の梢から落ちる雨粒が私の菅笠を音をたてて打つ。 雨具を着ていたが背中が破れ雨が滲みて背筋が寒い。 下半身も水の中に立ち込んでいたからずぶ濡れで、私は 濡れネズミのようにみじめな姿である。茂みのなかで 腰を下ろすと、むきだしの木の根が蛇のように這い、シダが 垂れて不気味だ。 こうして無人の川辺で寒さに震えていると、無性に人恋し くて温かな食卓や家庭のぬくもり、人の和などが貴重に 思え、逆に争いや欲望、贅沢がつまらなく感じて健康や愛、 生命など人間の本質的な価値観に目覚める。雄大な大自然の なかの孤独な釣り師は、人間のはかなさ、小ささがしみじみ と身に迫り何が大切かを教えてくれる。対照的客観の 「もの」と、感情的主観の「あはれ」が一致して生じる調和 的情趣の世界である。寂しさとみじめさで無限の豊かさが あることを知った。 私の足元には同じように雨宿りする一匹の虫がいた。この 心寂しい時に出会う一匹の虫、一輪の花は命の仲間として 私に強い感動を与えた。悠久な自然と私が連帯し同化した 瞬間で、静かに辺りを見回すと私の周りは私の仲間 たちで一杯であった。 万緑の なかの一なる 釣り師かな 順風 |
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ホームページの更新 | |
2003年にHPをUPしたときは、趣味の作品表示が主たる目的でした。陶芸、俳句、水墨画、エッセイ、海釣り、鮎釣り、写真、テニス等々のページの羅列だけでした。sns趣味人具楽部の「Hp作っています一覧」でも、大半が暇のある年配の方々の趣味的なサイトです。しかし5年ほど前からマイHP更新が「Art」にランクを上げました。 長年の更新が文章の「推敲」として「作る」から一ランク上がった「創る」に昇華したと言えます。ボクシングやサッカーを芸術だといったコーチがいましたが、テニスとHPもそのように捉えられたことは、自分なりの「他人を敬ういにしえの文化」として明確な変革で、「変化」はArtや創作の本質に沿うことでもあります。 当サイトが媒体メディアになれば幸いです。 |
楽しい 水彩画 | 水彩画用紙&額の規格とキャバス寸法 |
水彩画のサイズは概ねF3〜F8です 高画質写真展示ツール(Ver3) |
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エッセイ人生に美意識を持つことの意義 | |||
月に4回のテニスは全て午前の部で8.00〜12.00まで安く健康的に遊べる。 私は朝一番に開錠してコートへ入ることが好きだ。周囲を金網で仕切られたプレーの世界として、真っ白いキャンバス「画用紙」を前にしたような爽快な感じがする。午後の時間帯では楽しい一日が始まる予感や期待ができないが、朝だから気持ちが良いのかも知れない。 まず一番には夫婦揃っての健康への感謝、その次に自分が我流で取り組んできたテニスの技の結果がどのようにプレーで発揮できるか、展開するか、プレーの構想を練ることは絵を描く行動に似ている。 強い弱いがはっきりと出るテニスサークルにおいて、メンバー全員の平等性や和を計ることも幹事の重要な仕事であり、そのためのポリシーを掲げてサークルを運営したきた結果が、今日のキャンバス上にどのように展開されるのか、サークル運営も真っ新なコートに構想を練って絵を描く行動に似ている。 従ってコート内には二枚のキャンバスがあり、自分なりの芸術的創作的なプレー「美意識」を、パホーマンスを演じるつもりでプレーする。 サッカーやボクシングをArtだと言ったコーチがいたが、この世はプレーを楽しむ「生を営む」舞台であり、信条を表現するキャンバスであり、人間関係を学ぶ道場のようなものだ。その土俵づくりは正に日々の工夫やアイデア、前向きな創作であることがキャンバスにつながるのだろう。 人生に美意識を持つことの意義は、人間の行動に愛と調和、秩序をもたらします。何故なら対極にある醜なるものを嫌悪するからです。 この拒否反応はルールを守るスポーツや、選手の理にかなった無駄のない美しいフォームに感動するだけでなく、企業の社会的責任まで自覚でき、社会人としての節度をもった人間を育てて、文化的で穏やかな国民性のお国柄になりうる。 日本にも柔道、剣道、茶道など道を付けて精神修行する感覚は昔から有ったが、文化的な習い事は「他人を尊ぶ」「他人ファースト自分セカンド」の心境の結露で、上から目線の「自分ファーストな人」に習い事はあり得ない。 ゆえに高齢者「77才」となった管理人は、現在もテニスだけでなくホームページづくりでも美意識を持って「人生はキャンバス」を実践中です。2018,11 識者の言葉「Artはヒトを人間にする」
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エッセイ小さなこと 1990 | |||
一つのことをいい加減に済ますと全てがいい加減になりやすく、結局その人はいい加減な人間になってしまう。例えば待ち合わせに5分ぐらいの遅れはたいしたことではないと考えている人は、5分にとどまらず10分、15分と遅れる人である。 逆に言えば5分ぐらいのわずかな時間はどうにでも都合のつけられるわずかな時間であり百円や二百円ぐらい、一度や二度ぐらいの感覚は三度四度につながって知らず知らずに自分をダメにする。 自分を大切にすることは自分に厳しく生きることで、自分の家族や友人に対しても大切に接していることに他ならない。 逆に自分に厳しくない人は自分という人間を粗末に扱うだけでなく、自分に接する全ての人をいい加減に扱っていることに他ならない。 例えば友人がずるい行動をしたとき@何も感じないA不快を感じるが傍観するB友人をいさめる。の三つのうち友人を粗末に扱っているのは不正を傍観するAであり、真に友人、地域、社会を大切に思い真摯な付き合いを望んでいるのはBである。@は欠陥人間として論外。 堅実に暮らしてきた人がある日に突然殺人者に変貌することは稀で、大部分は日頃の”いい加減さ”が、例えば会社の金を一時しのぎにくすめて、初めは少しずつだが膨れ上がるのは自然の理で、返済のためにサラ金で借りたり競馬で元をとろうとさらに墓穴を掘り、追いつめられて銀行強盗をしたり、豪邸に押し入り家人に見つかり、慌てて殺人を犯していまう。 また日常的なイジメや暴力も、始めは小さくても次第にエスカレートしてレベル二になり、それで変化がなければ三が死になる過程を踏む。そのダイナイズムを押さえることは加害者には無理で、それが集団となればモンスターのような暴走を生む。まさに人格崩壊、自分で意識できない転落の構図をたどる。 人間は小さくて弱い愚かな存在です。だから五分とか百円というどうにでもなる小さなことを大切に考える。それは決して小さなことではなく、積み重ねることで生涯には大きな結果を生むことと言えるでしょう。 |