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いにしえの礼節
法以前の人間性
 日本人の美意識 z自分でつくれる100歳健康体  いにしえの礼節 礼節

 
   

武士道


仁、

義、
礼、

信、



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 君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、卑怯を恥とし富貴よりも名誉を以て貴しとなす

」 たとえ敵でも相手に情けをかける。
「義」 フェアプレイを表し勝負に勝っても不正行為で勝ちえた勝利は賞賛されない。

「礼」 他人に対する礼を表しす。礼をもって義とする。

」 まず相手への信頼を表して口約束で十分事足りるという信義。
」 愛する者への自発的忠誠心を表し、これは強制されるものではない。尊敬していない上司、主に服従、愛する行為を忠とは言わない。したがって尊敬していない者、愛してしない者への忠誠心は存在しえない。

」 言+成=言った事を成す。とした意味があり、一度でも口にした事は命がけで守り、守れなければ死をもって償う。すなわち「」が成り立つのは、「」あっての事。

このように武士道とは、人が人として美しく生きる姿勢にあり、見せかけだけのパフォーマンスではありません。

儒教

仁、礼、孝、忠、中庸の精神
信義 真心をもって約束を守り、相手に対するつとめを果たすこと。人間の最も大切な心の一つ。「―に厚い」「―を重んじる」
情愛 他人の立場に立って思いやる深い心の情感。武士道精神の一つ。
情緒 事に触れて起こるさまざまの微妙な感情。また、その感情を起 こさせる特殊な雰囲気。「―豊かな作品」「異国の―があふれる」「下町 ―」
礼節 無人島で生活している人には関係のない言葉です。また欲望や自分の権利を主張する「求める」ものではなく、他人の立場を理解して礼を尽くす「与える」「他人を重んじる」「信義を通す」自分を律っして他人に接する和敬の念。
日本人の美意識 美に関する意識。美しさを受容したり創造したりするときの日本人の心の働き。自然や故郷、他人に対しての調和的連帯意識がさまざまな美を醸成する。当サイトのテーマ「礼節」も言い換えれば飽くなき美の追求です。
調和と中庸 「徳」を突き詰めて考えたり先鋭化すれば悪徳になります。アリストテレスの倫理学で、「中庸」を徳の中心になる概念としている。過大と過小の両極端を悪徳とし、美徳は正しい中間(中庸)を発見してこれを選ぶことにあるとした。」
辞書にも「考え方・行動などが一つの立場に偏らず中正であること。過不足がなく、極端に走らないこと。また、調和されたさま。古来、洋の東西を問わず、重要な人間の徳目の一とされた。中道。」
活字文化 言葉は他人がいて自分が在る人間社会で協調して生活するための共通意識語,また善と悪のようなさまざまな規範を社会で明文化できるプログラム言語のようなものです
 
 


管理人の理想郷「いにしえの名古屋城」
 
 
 大人、子供、乳飲み子、小動物、武士、庶民、植物、自然が一体
とする理想郷

桃山時代からあった花見は桜を愛でるだけではなく、人々と価値観を共有して睦みあうことを美とする文化で、日本人の他人を意識する⇔敬う⇔礼儀深い国民性⇔おもてなしの文化につながる。

またお祭りや盆踊り等の行事も、「。る粋や風流」を生活のなかの価値観として、他者と楽しむための遊び文化で、道楽や遊び人の視野の広さが、俗世にありながら私利私欲を恥じる文化として生み出せるのだろう。
 
 
2008.7 礼節は自由社会での戒律
 当管理人が参加している「コミュニテイ広場」で友人Dさんの「イスラム教徒の戒律や敬虔さに鑑みて、現在の日本に信仰心は必要か否か」の日記に多くの賛否の反響があり、私も下記のようなコメントを記しました。

 「宗教は人々の心の拠り所になりますが、度が過ぎると弊害をもたらします。どのあたりが妥当か?手を合わせたり頭を下げる祈りは、自らを真摯にさせ自己を律する。この程度の信仰で良いのかも知れません。
 
 仏教の戒律は他の宗教にみられるように厳しくありませんが、それだけに社会の一員として法律で定められない社会道徳などのルールを、自戒して規範としなければならずこれが自らに課す戒律でしょうか。
 自由な民主社会のなかでは自戒は重要なファクターになります。自己愛を抑制して他人を意識した「礼節、信義、信頼、善意、謙虚」等の言葉に留意しなければなりません。留意することが他者「社会、地域、自然、他人」を重んじる「他者愛」につながります。

 他者愛はエゴなどの自ら律することで社会に規範となる秩序をもたらすものです。

 武士は命より信義、名誉を尊んでいたようですが、これは他者に真摯に対応していたことであり、庶民も他人のことを「人さま」と呼び、
人さまに迷惑をかけることを最も恥ずべきことだと考えていた時代がありました。”先生さま”とか”お巡りさん”も尊敬される立場でした。
 日本には日本の良いところが多々あり、昔は貴族社会にも庶民にも習い事を尊ぶ風流人が多くいて、その結果日本にはさまざまで豊かな文化が育まれて現在に至っています。「習う」という行動は「祈り」と同じ自らを律する謙虚さの表れです。つまり社会や他人を常に意識し、重んじて暮らしてきた現れです。

 しかし近年他者を重んじる風潮は廃れて自分さえ良ければの自己愛者が増え、社会の退廃を憂う事態になっています。
識者はこの風潮を「活字文化の衰退」」「社会に美しい秩序を欲する美意識の欠如」と文化的衰退を指摘しています。

 つまり文化の衰退が自己愛を超越できない精神の貧しい人を増加させているのです。通りすがりに簡単に人が殺されたり、弱者からひったくりする社会に心の痛みや悲しみ、社会の不条理等に怒りも何も感じない我関せずな人「自分さえ良ければと傍観している自己愛者」が増えていることがなによりの退廃です。

 高齢者の私が下記の信念でおこがましくも草の根で文化を訴えています。
1、仕事の定年はあっても社会の一員としての定年はない。
2、自己愛は結局は自らを滅ぼす愚考であり、
  他者愛が究極の自己愛である。
3、仏教の「因果応報」の教えで自己愛者は結局は、殺伐とした社会で自分や自分の子孫でツケ払わなくてはならない。
4、逆に他者愛者には広く愛する対象があり、その愛を他人と共有したい、知ってほしい、共に愛を分かち合いたいと、愛するものを絵画で描き、愛するものを土で捻り「陶芸」、愛するものを言葉で綴り「エッセイ」、俳句を詠み、キーボード「HP」を叩く喜びがあります。」

 江戸文化  尾張名古屋の文化

  この投稿は私に一つの宝を与えてくれました。

 「自由社会での戒律は自らに課すべきもの」という考えで、当初から持っていたものではなく、コメントを推敲しているうちにコロリと出てきたもので、改めてて活字文化の意義を感じました
文字は漠然としている事象を推敲して明文化して個々の思想にでき、さらに定義したり整合性を高めて法に定めることもできます。
 
 従って時間を置いて「平常心になり」推敲を繰り返すことが大切で、文章のつじつまを合わせたり流れをよくすることに努め、ある流れが文章にできると、文章は一人歩きするように進み視界が開けてきます。
今まで見えなかったものまでが見え、自分の予期しない場所にまで到達することがある。こうしたものの積み重ねで人それぞれの考え方が「信条、思想」になり、目に見える活字で刻印しておく。

 社会から活字文化が衰退することを危惧する理由がここにあります。その上活字を含む習い事など、社会から学ぶことは何も無い考えの人の増加「文化の衰退」は、思想、信条、道徳観が貧弱になることは否めず、戒律をもつことまでは無理?ではないでしょうか。江戸文化いにしえ