東日本大地震 2011.3. |
ドナルドキーンさんが東日本大地震を契機にして「大好きな日本を元気づけるために移住する」決意をされた。ご高齢のキーンさんにとっては放射能汚染国への移住は決心の要る行動で、日本人には嬉しいことです。
博士の信頼を裏切らないよう、信義に恥じないように美意識を持ち行動したいものです。2011.6 日本名は鬼怒鳴門
「キードナルト」
ドナルドキーン氏に限らず多くの外国人の日本人評は「礼儀深さ」ではないでしょうか。東日本震災被害の人々の節度ある行動が外国メデアに賞賛されました。
無人島で一人で生活している人には礼儀や信義は要りません。他人と一緒に住むところには他人を意識した節度ある行動をとることが「礼儀」だと定義できます。 ドナルドキーンさんは外国人と違う日本人の特徴を「自分を出さない」ことだと言われましたが、それは謙虚さや奥ゆかしさ、謙譲の美徳と言う意味と同時に、他人を尊重する、他人を立てる、敬意を払う、人様に迷惑をかけるな、などの他者への配慮や思いやり、生命をもつすべての他者に対する信義と愛情です。
西洋ではこのような他者愛は自己愛(エロス)を超越したでアペー(天上の愛)と言います。ニグレンは「エロスは人間的な愛であって(自己実現の愛)原理的に自愛であり、自己中心性を脱することができず、利己主義に近づく危険がある。反対にアガペーは人間的立場に対する優越性をもち純粋に無動機の他者実現の道。」西洋の哲学者が説いた愛を日本人は平均的に美意識として持っていたのではないかなと思います。言い換えれば集団のなかで自己を突出させることは美意識では醜、信義では恥という感覚でしょうか。 |
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梅雨空のなかの参議院選挙では与野党お互いが相手の悪口を言い合って足の引っ張り合いをしていました。相手を悪く言うことで悪人に仕立てて、自分だけは国民のための善なる政治家であるという訴えですが、人間としての無節操さ品格のなさにむなしさだけを感じる選挙でした。
国民にとっては街選車や街頭演説は、税金の無駄使いで迷惑な騒音でしかないのです。 政治家や官僚が密かに自分たちだけは優雅に暮らせる制度をつくってきた事実は国民を裏切っていることですが、彼らに他人の悪口を言う資格があるのでしょうか?。
その上こうした政治家の応援街頭演説に拍手する聴衆も疑問です。民主主義は民意がストレートに届きますが、民意が必ずしも正しいとは言えません。うっかりすると民主主義の欠陥「衆愚の選択」を犯します。
従って候補者の軽薄な演説は衆愚に迎合した、人の良い爺さん婆さん向け劇型演説を敢えてしていると言えるかもしれません。
お隣の中国は一党独裁の強みで着々と長期戦略の布石を打ち経済発展していますが、日本はこのような権力争いに明け暮れて頻繁に政権が変わります。これは国民のための政治より自分の権力のための争いを税金を使って延々としている国であり、その無駄と無策を衆愚の選択で容認している恥ずかしい国と言えます。
政治の貧困は国民の貧困で先人が血の代償で得た民主主義は、主権者である国民が守るべき責任を負っているのです。現在の日本の現状は新卒者の就職難、若者のホームレスの増加、自殺者の増加等の戦後最悪のなかで、主権者には「いい加減に地域エゴ、業界エゴで自己愛投票している場合か!。」
また全政治家には「いつまでも権力金力争いをしている場合か!」と言いたい。
伊藤忠商事の丹羽相談役は社長に就任したときの理念を「清く正しく美しく」が企業の基本姿勢だと言われたそうですが、清く正しくは理解しやすいですが美しくとはどのようなものでしょうか。
美しいサッカーとは、サッカーを集約した勝利に導くシンプルで機能性の高い力強いバランスに美しさを感じます。
利益を追求する企業も透明性や情報開示、また社会的責任や企業ポリシーなど美しくシンプルな体制が経営に必要だという意味に取れます。
日本という国家は国家を集約した平等で機能性に優れた力強さや、弱者に優しい社会体勢、私腹を肥やす偽善者を先生と呼ぶことを恥じるバランスのよい美しい日本と言えるでしょうか?。
マイHPに識者の言葉「Artはヒトを人間にする」「文化は社会の潤滑油」を冠しています。その他美談や美しい行為は他人を和ませます。 また個人の美意識は、その対極にある醜さ偽善、恥、悪、我欲を戒めたり嫌悪する意識を育てます。
美しい日本を求める前に一人一人が美を尊び醜を嫌悪する美意識が必要ではないでしようか。
また「清く正しく美しく」の陳腐に思う言葉が、人の繋がる社会ではいつの世も原点にあったことが嬉しい。
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昔は教会や貴族のお抱え画家が幅を効かせる社会の一部分だけの芸術であったが、19世紀に入り雇われる境遇に決別して新しい自然の懐で個性や魂表現を求める芸術に変貌した。「ロマン主義、印象派など」人間性喪失した現代において「自然」のもつ大きな存在感は芸術にますます重きをなすだろう。
「美」は一般に「良いこと」、哲学的な表現では、「善」と何かにおいて関係するものだと言える。
「芸術」は表現者側では、その働きかけに自分の創造性が発揮されること、鑑賞者側ではその働きかけに何らかの作用を受けることなどが芸術が成り立つ要件とされる。
2007.1
芸術がヒトを人間にする。醜に対する美の追求は社会に美しい秩序を欲する。スポーツや科学もより良い社会の、追求であり芸術の創作行為として文化となる。企業の経営者はオーケストラの指揮者のような感覚が求められ、政治家
は美しい国を脳裏に描ける画家の感性が必要だ。活字は社会のあいまいな事象を明文化できるプログラム言語のようなものだが、罪とか罰は定義して法に制定できても美や善意、良識は明文化が難しく人の心に委ねられたいる。
従って人間は常に美と醜の価値基準を持たなければならない。私も美意識で当サイトをユーザー側に立ち、親切で見やすくお役に立つよう整えている。
当サイトで美意識を持ち創作した項目 |
contents |
どこが美なのか |
理容に関するエッセイ |
茶人の心で客人に接っする雅趣ある人付き合い。 |
仲田夏まつり |
社会の一員とした精神、奉仕を訴えています。 |
モラルハザード |
道徳崩壊を憂い真の「美しい日本」を探求 |
アニマルゾーン |
動物を通して生命の神秘性と美しさを表現。 |
まゆげの美学 |
眉毛や髪型も似合う似合わないの美学です。 |
先鋭化 |
グットセンス、ボンサンス、良識、中庸とは |
テニスライフ |
美しいフォームの追求とポリシー。 |
もし宣告されたら |
生老病死は万物の定めで美しく死ぬ生き方。 |
鮎釣り |
私の美学の原点である大自然のなかの小さな人間。 |
礼節 |
礼節は他人を大切にする生き方。他人から礼節を学ぶ。 |
SPORT |
人間の肉体と精神の極限と素晴らしさを得る。 |
宗教 |
宗教も真善美に深くかかわります。 |
学びすと |
社会と自然と他人から真善美を学ぶ |
万博「入場者の叡智」 |
日本人の礼儀、律儀、勤勉さを美とします。 |
自己責任 |
真善美を尊び偽悪醜を嫌悪する。 |
なんとかしろ |
自画像の独り言 |
活字文化として社会の規範やルールを言葉で定義できる「プログラム言語」のようなもの。
「Wikipedia」
思想(しそう)とは、人間が自分自身および自分の周囲について、あるいは自分が感じ思考できるものごとについて抱く、あるまとまった考えのことである。哲学や、単なる直観とは区別される。感じた事(テーマ)を基に思索し、直観で得たものを反省的に洗練して言語・言葉としてまとめること。また、まとめたもの。 |
エッセイ |
web書籍 |
俳句 |
余情、詩情を楽しむ伝統的文化17文字の空間を楽しむ |
水彩画 |
まさに美の探究、風景画は風が通り抜けるような空間描写 |
水墨画 |
筆を惜しむ精神と枯淡と余白の世界 |
陶芸 |
土によって自然描写 |
愛、地球博 |
万博に 列なす民の 日永かな |
日本人の美意識 |
日本人の芸についての意識です。 |
当サイト全般 |
ホームページは美を総合的に表現できます。 |
他者愛に関するエッセイ |
不変的思想 信条 |
後期高齢者制度にみる思惑 |
弱者を粗末にする制度 |
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日本人は農耕民族だったせいか古来より屋外での花見を好み、現代でも桜に対する深い感慨を持ち桜だよりは全国に刻々と報じられている。私もそんな血を受け継いでいるのか、テニス仲間と十年来花見とテニスのできる場所を探して運動後の美味しいビールを味わってきた。
テニスは一人では成り立たないスポーツだから、楽しいスポーツライフを望む人はいやでも仲間づくりを心がけて、その仲間との継続した付き合いをしていく必要がある。つまりテニス愛好家は日々人間付き合いの学習をさせられていることになる。
勝敗にこだわって判定に文句をいう人や他人のミスに口やかましい人などが、少しずつ礼節を学び他人を重んじるようになる。その結果が花見の宴の人の輪になるわけだから、その時期がくると私はわくわくしてお膳立ての労をとることになる。
人付き合いは親子に始まり夫婦、兄弟、親戚、友人、主と客人、男と女、隣人、同僚、若者と老人などまた国と国の付き合いなど人生そのもので、この関わりにはさまざまな学びがある。その上人それぞれの信念は年齢とともに変わっていくものであり、とすればその学びは生涯に渡って継続すべき、換言すれば他人と接することは人生の主目的、それくらい大切に考えるならば、おのずから他人の長所がよく目について美酒は身近なものになるだろう。1998.4
酒好きは 人好きなりぬ 花の下
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今年の暑い夏も事件や事故で多くの方が亡くなられました。集中豪雨,河や海での水死、殺人事件、交通事故等による不慮の死です。こうした現場では捜査員や救助隊が出動されるのですが、時々このなかで会話しながらの笑顔がテレビに映りだされることがあります。
どんな意味の笑顔かは視聴者には分かりませんが、遺族や縁故者、また行方不明者の家族にとっては傷口を踏みつけられるような悲しい思いをされるのではないでしょうか。また北朝鮮の拉致行方不明者の写真の上にスポンサー名を貼り付けている民放も理解できなません。横田めぐみさんのアップの写真の目と鼻と口の辺りに3~4社の社名を貼り付けて宣伝している。
社会のなかで不幸な人や社会的弱者を思いやることは大切なことですが、個人はともかくとしてテレビ局は公器として編集する時に不謹慎に思える場面をカットすべきではないでしょうか。
些細なことかも知れませんが日常的にこうした他人の心の痛みに無神経な放が流されていると、知らず知らずに大切な心を失い殺伐とした世の中になってしまいます。
今朝守山区からのお客さんが来られて「うちの辺りに赤とんぼが一杯飛んでいた」と言われました。仲田公園ではとんぼは見かけませんが、蝉はすっかり鳴りを潜め思い出したように鳴いても声はかすれて途切れてしまいます。夜になると秋の使者コオロギが静かな音楽を奏でるでしょう。
蝉落ちて次なる奏者羽ふるふ。
私もコオロギのように次に生かされているものとして筆をふるいキーボードを叩き句をひねっています。 他者愛と自己愛
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2003.7.teテニスクラブにポリシーを一部書き換えた |
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当会には会則があり入会された方は遵守して頂くことが条件ですが、残念ながら
現場では不信感を抱く言動が散見されます。会員の大半が私のホームページから入会して頂いている関係上、不快感を持たれることは看板倒れで責任を感じない訳にはいきません。
よく見る光景の例えば1、運動のために参加されている人もいるなかで、聞かれもしないのにプレー中のパートナーのミスに、手を休めて相手ペアを待たせて持論を押し付ける。2、対戦相手ペアを物足りないとして強者ペア側が組み代をしようとする言動。3、負けた相手ペアにコートのブラシ掛を強要する。4、ダブルスなのにパートナーを無視して単独で走り回り、自分だけのパポホーマンスを演じる。
5、11時からランダムで対戦する時間帯を設けてあり、交代はベンチで待っていた人を優先するのに続けてゲームをする。「2回り待つ人がでてくる」6、11時からの時間を10.30から切り替えようとする。等々です
目立ちたがり屋、仕切りたがり屋の上から目線ですが、当人は秩序を乱す弱いものイジメにつながる愚行に気がつきません。特に2と3は直近で行われた当会
で初めての行為で、このような人は黙っているとエスカレートすることが特徴です。2については自分が格上だと自覚するなら「弱者に練習をさせながら、ゲームではさりげなく勝つ」難しい課題を自分に課すべきです。また当会のランダムで対戦できる時間帯は何のためにあるのか?。
他人との関わりを重んじるサークルとかコミュニティ、また人間社会においては、他人を尊重することが基本です。過去には肌に合わないと脱会して自分のサークルを作った人もいましたが、自分を主張する人には正しい選択です。当コミュニティは16名中>大多数の、他人を尊重できて「全員が楽しく遊ぶ」価値観を共有できる、常識的な方々により運営され、
そうした土俵づくりが日々コート内で守られていますが、その土俵上に傲慢な部外者が土足で上がるような言動が嫌われる原因です。
④平等が趣旨なら誰でも意見や指図、主張ができるのでは?。できません。何故なら現場や人としてのマナーを知らない自己中なご意見や主張は的外れで問題を起こすだけです。
この問題を証左できることは、他人を重んじる大多数の協力者にはそのよう指図や会への意見は皆無である事実が真理の帰結であることを表しています。
2014.1 |
04,11,13 イチロー、松井の礼節 社会への礼節 |
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イチローは国民栄誉賞受賞を,自分はまだ値しないと二度も辞退しました。また学校訪問などを通じて子供たちに夢を与えてその姿勢を宮本武蔵や求道者のようだ、と評する人がいます。
松井は高校野球で5打席連続敬遠された時ふてくされたような態度はなく大人の受け答えをしたのみか、そのときの相手チームが優勝したとき相手の監督に祝電を送っていた。また父親と共にアジアの親のない子の里親になっていて不幸な子供たちと長年の交流を続けている。オリンピックのメダリストたちのコメントは親やコーチなど世話になった人々への感謝と、そのお陰で今の自分があると謙虚さが目立つ発言が多かった。
昔から武道に心技体の大切さを言われてきたが、頂点に立つ者の理にかなう言でトップアスリートたちのコメントはそれを裏付けている。苦労して掴んだ彼らに共通するものは「謙虚」さでありそれは常に努力を惜しまないことにつながり他人より一歩進んだ理論と能力、深く掘り下げた考えが身につく。心が貧しければ「井の中の蛙」で終わるしかない。
「謙虚」を言い換えればそれは他人を意識した言葉に他ならず、他人「人間」を重んじる、人間関係を大切にすることで例えばイチローの辞退は「モチベーショが下がったらフアンに申し訳ない」と、フアンと自分との人間関係を考えた言葉であり彼のフアンへの礼儀を表している。また自分一人で成し得た成果ではないと自分の周囲の同じように努力してきた仲間やつながりを持つ人たちへの配慮は社会への礼儀とも言えるだろう。
そうした謙虚さが感謝の気持を生み努力を惜しまない精神構造をつくり、ボランテア精神が育まれて全てが良い方向に向かう。謙虚と礼儀は無人島で生活して
いる人には必要のない言葉ですから、逆に言えば人間社会では人付き合いのための当然な心だと言えるのではないでしょうか。
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純真なエリート学生たちがはまった罠、オウムの錯覚は可愛そうでした。科学は一方通行的に進化して、いまや百歳の平均寿命も夢ではなくなりつつる時代ですが、個々の人間は永遠に迷える弱い存在です。ITは進化してHPが簡単につくれる時代になりましたが、ユーザーを優しく誘導してHPを気に入ってもらうことは簡単ではありません。究極にはユーザーとHP管理人とが心を通じあえれば理想でしよう。
「HPは人なり」の認識が必要で人となりを訴えるための優れたツールが文章力です。
昔からのことわざ「言葉は心の使い」「言葉は身の文」は、言葉とはその人の人のこころを表す使者のようなものという意ですが、現代はHPがこころの使者です。その管理人のこころや信念をHPという現代の使者に託して反映させられるのです。
そのこころとはユーザーに優しく思いやりをもって社会に役立とうという、社会の一員としての謙虚な姿勢です。還暦過ぎてからも自分の周辺には果たすべき礼儀はあります。ホームページの創作更新もそのうちの一つだと考えて老いたマスターが頑張っています。
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06.7.31 理性と本性 この世に生を受けた人間としての礼節 |
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人と人との信頼関係「信義」は昔から武士道の一つとして社会のなかで重く受け止められてきた。換言すれば「道」として極めなければならないほど難しいことだということです。現代でも町内会や、趣味の会、スポーツクラブなどのグループ付き合いのなかで、つまらない誤解や錯覚、嫉妬、個性のぶつかりあい、ひがみや勝手な思い込みなどで仲たがいするのが人の常なのです。信義はガラスのコップのように簡単に壊れます。
仲間うちに軋轢が生じたとき①相手に不満があるが自分も完璧ではないからと妥協する②どうしても妥協できないときは冷静に話してみる。「陰口で終わらせないで広くて明るいテーブルに着く」③それらを踏まえて判断し行動する。ところが大多数の人は②を省いて短絡的な③のそれぞれの生き方に進む。気の弱い人はこっそりと、短気な人は怒りを爆発させて去っていく。
残された方は原因が分からず、それまでの楽しかった思い出は不愉快な思い出に変わり、日の出と落日のように出逢いは別離を迎える。このような不本意な結果は人間として賢明とは言えず釈然としない。
②は火中の栗を拾うような勇気と正義心が必要だが、一度ぐらいは知性ある人間としてもつれた糸をほぐす努力をすべきではないか。 5~60代の人生で一番分別盛りの年代の人までが聞く耳を持たないような別れは恥かしい話である。「立つ鳥跡を汚さず」で、その後に決断しても決して遅くはない。
しかしそこに妬みやひがみがあると話にはならない。何故なら「妬み、ひがみ」は正当化のできない人間の悪しき性、三角関係に多く心に持つだけで平常心を失った邪悪な人間に変貌してしまう。明るいテーブルに着こうとしないことが心が歪んでいる証拠だ。
テーブルに着くべきだと言う人と着こうとしない人との両極端の差は、相手「信義」を大切にしているかいないかの差でもある。
この他、人間関係を難しくしているものとして仲間の陰口がある。陰口は悪口でありそれ自体に道義性がないだけでなく、他人を悪人に仕立てることにより自己を善人にすり変える偽装家である。別名「欠席裁判」とも言い、反論する相手がいないなかで自分の都合の良いことだけを喋って他人を「悪人だ」と判決を下すのである。従って千時間を費やしても真理はでてこない。
話には前後があることを知らず一部分の悪口だけを聞いて「乗せられて」しまう単純な人がいて、突然怒ってくると手がつけられないことになる。
また陰口をアンフェアな行為として相手に諭す人は稀で、大部分はあいまいに陰口に調子を合わせ感情の火種を大きくしてしまう。これが人間本来の姿かもしれない。
真善美を求めることは醜悪なものに嫌悪を催す欠点を背負うことになるがこのことは善なのか悪なのだろうか。 |
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紅くして 黒き晩夏の 日が沈む 山口 誓子ゆく夏の 幾山越えて 夕日去る 飯田 龍太
ものの影 鋭くなりて 秋近し 湯の街の 道に湯気する 夕立かな |
ホームページを作り10年が経った~その総括 2003.11 |
HPを作って10年目の総括 2013,10
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いまから10年ほど前にインターネットは「世界の博物館、美術館を家庭に持つようなもの」と形容されていた。新しい世界にロマンを感じて初めてパソコンを買い書店でサトウサンペイ著、「パソコンのパの字」を買う。文字通りパの字からのスタートで、半年後の2003年7月になんとかHPを立ち上げて10年が経過した。
現在はPCの能力、ネット検索能力、ネット環境などが著しく進化して、あらゆる物、あらゆる事が調べられる宝箱になっている。私のネットへのロマンはこの宝箱を所有できたことだけでも当たっていた。
ノーベル賞を授与された益川敏英氏が講演で「研究を続けられたのは社会にロマンを待てたから」と仰られた。私は最近「人生に美意識をもつことの意義」を強く感じて日記にも記したが、ロマンは美意識の産物でありボジティブな行動が10年目の結果を生んだと言えます。
2013.10
HPを立ち上げた頃は「趣味の発表の場」と「家業の宣伝」だったが、宝箱で学んだことを備忘録としてHPBにメモするようにサイトUPして、コンテンツをを増やすことができたことは、結果的に三重の利益を享受できるようになった。ネットは①「自分が学ぶ場」⇒②「学んだことをHPにUPして他人の役に立ち、アクセスと収入を増やし自分の可能性を広げた」⇒③「パホーマンスに優れたネットは自分を表現しやすく、他人からシェアされてコミュニテイに繋がる。」になっているのです。
「学ぶ場」の一つの例としてブラウザを複数使い、その中の一つを辞書専用に使います。「ブラウザとは」で検索するとネット専用辞書がドバッ!とでてきて類似や反対語まで掲載されいる。「文は人なり」と言いますが「HPも人なり」という考えで内容は推敲を繰り返して作りました。その他有名画家の作品や絵画技術を紹介したサイトはネット上に溢れていて無料で学び放題です。
HPは私の趣味「コンテンツ」の多さがネットの進化にタイミングが合ったと考えられます。つまり当サイト「理容人生」のピラミット型の構成で数多い子供や孫にあたるコンテンツが、検索の進化でそれぞれがヒットして複数のHPを運営している状況になりアクセスを増やせました。例えば子供のコンテンツの「水彩画」には孫の「4線描写」「デッサンの極意」「水彩画用紙の種類」「Googleストリートビューから写生」「田舎の絵」などの多くのサブコンテンツがありますが、すべてトップページに検索されます。
宝箱を所有してからは趣味の発表の場「個人のHPの7割を占める」から、他人の役に立つ専門性、個性的、利便性にシフトできましたが、06年から取り入れていていたアドセンスが、09年度から月に万の桁を超えるようになったことはアクセスUpに比例した余禄です
ネットのパホーマンスは、自分専用の放送局を持つようなものから、SNSの「アラブの春」のように爆発的に進化した。自分のHPを介して実体現できるコミニティは自分が主宰者で充実感を持てます。、テニスサークル「仲よし会の案内」「水彩画教室の案内」「ヘアサロンツツミの案内」などで、「テニス、、」はメンバー全員にネット環境があり、サイトを見て入会される人が大半ですが、サークルの案内と会のポリシー「メンバーの人間関係を大切に」に感動したと言われる人もいて、内容や趣旨がシェアされた訳でHP&サークルの管理人として嬉しいことです。また3.11のときには「仲よし会」で被災者支援をさせていただいた。
「水彩画」は、自作の発表もありますが、「水彩の学びすと」「Googleストリートビューから写生」「水彩教室」は専門性、個性的、利便性がありと授業マニュアルをHPで更新していて自分の可能性を広げました。これらをfacebookやツイッターで発信しますが世界3~40カ国から訪問者があります。特にストリートビューから写生したり、「ドロミティ岳三十六景」は10年前の私には想像もできない世界で、その上ビューはの感慨をもたらして⇒地球人、世界は一つのネット時代の連帯ができます。こうした物好き人間は世界初の可能性までもあります。
また私の絵を店のウインドウに掲げてあり、通勤や散歩の人たちがリピータとなり、なかにはドアを開けて入り絵について質問や話をされる人があり、これも予期せぬ地域のコミュと言えます。他人を教えることは自分も学ぶことになり、ロマンを持てたことが学びすとの環境をつくってくれたのです。ゼロからスタートしたこの10年間は小さな積み重ねでしたが、年数が重ねれば小さなことでも形あるものになります。
「ヘアサロン、、」も50年も営業していると一つのコミュニティでです。頭髪を整える職業ですが、継続して来店されるお客様は店主夫婦を信頼して来店される訳で、その信頼を損なわない茶道のこころが必要です。
技術だけでなく人の繋がりのなかで招く者と招かれる者の茶道のしみじみとした信頼関係「コミニティ」を味わえることは健康的で幸せなことです。ここにもネットからの訪問者があることは、低額理容室が周辺に多いなかで決してお金だけの人間社会ではないことです。
この点はフクシマの被災者への保証が金銭だけでは済まない訳で、「古里」「地域」「人々」とのつながりや連帯等の「生業」が失われた悲しみは、日本人として共有しなければならない。 このようなHPの内容に興味を示して頂けることは店主への関心でシェアされたと感じています。人生は捉え方次第ですがまさにHPは人なりで、ネットは
人を変える可能性を持っています。近年は他人と共有できることを幸せに感じる社会ですが、言い換えると文明や科学が発達するほど森や田の神が居なくなり個としての人間は脆弱になり、連帯や共有するものを見つけられなくて孤立する。こうした時代こそ地や他人、自然と世界への関わりが重要になってくる。
自営業は農業、漁業、科学者、アーティストと同じで定年がなく、歳を
経るなかでネットが介する三つのコミュを生業として趣味を楽しみながら人の繋がりを実体現できる日常生活が、宝箱のなかの最大の宝石だと感じています。
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人生に美意識を持つ意義 2013.5 |
超ポジティブなお婆ちゃん
当店の道路にに面したウインドウに風景画を掲げています。月に1~2度入れ替えるが通行人が足を止めて見ていかれたり、リピーターも現れて店内の店主と目が合うと手を挙げて挨拶をされたり、なかには店内へ入り画用紙や絵具の銘柄を訪ねる人もいて地域の小さな文化的コミュニテイになっている。
その縁で一人のリピータが3月から教室に入られることになり、2月26日の教室へ見学に来られて皆さんに紹介した。
「以前から花は描いたことがあるが、このような風景画を描いてみたい」と興味を持って頂いていた。とても前向きで臆するもののない明るいお婆ちゃんで、80過ぎかなと思っていたが89歳で驚いた。さらに曰く「この歳になった私に先生と呼べる人ができたことが嬉しい」
私は母親のような年配の人に大変恐縮した。そして芸術文化に触発される関心や感動は健康や長寿にも大きく関わっている、まさに栄養であることを納得。ちなみにリピータは女性が大半で男女の平均寿命の差も納得。また絵を描くこと自体が描こうとする愛する対象をすること。
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長年の私の趣味「釣、俳句、絵画、陶芸、エッセイ」を通して雄大な大自然に接してヒトの小ささを知り、また接客業で多くの客人の人となりに接したきたこと、テニスへの挑戦とサークルの人間関係、ご近所の付き合い等々の生活のなかで、人生に美意識をもつことの意義を強く感じるようになった。
真善美を訳すと「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。」とあり三者一体のようです。また美は日本の平均寿命の男女間の差に見ることができます。
女性は高齢になっても化粧をされて身だしなみに気をくばります。その上友人を誘いお茶のみやデパート巡り、習い事等を楽しまれて、ポジテブに人生に順応されていますが、美への関心がロマンや夢、愛、感動につながり女性の長寿や健康の源になっている。
一社会人としても美意識は「美しい社会」の重要なファクターになります。美を尊ぶことは醜を嫌悪することで、悪行を戒めて健全な社会の一員として秩序を守ろうとします。汚職や凶悪事件の多い社会は、美意識に反する醜悪で悲しい社会です。
社会の隅に生きる弱者に心を配り、広い視野で秩序や調和のある社会づくりができて、美意識によって秩序は守られてより美しくなります。格言「シンプル イズ ビュウティフル」
仕事や商いにおいても美意識は商道に反する行動を戒めます。
花には水を、人には愛を、商いはこころを注ぐ
企業は美意識に おいて社会的責任を果たす意識が生じます。
特に政治家はオーケストラの指揮者のような広い視野で調和と秩序のある美しい日本の、将来の設計図を書けなければれいけない。
強い弱いがはっきりと差のつくテニスのサークルでは、強者が人間関係も上であるかのような上からの言動をとりがちですが、美意識からすると醜悪でメンバーの平等を趣旨とするポリシーを掲げています。
スポーツの技術面でも美意識は重要なファクターです。プロであれアマであり見た目に美しいフォーム=パワーに無駄や無理のない安定感のあるバランスの良いフォームが求めるべき理想で、上級者ほどこの基本(原点)に忠実です。北海道の旭山動物園の人気の秘密は、特別なことをしている訳ではなく、少し視野を広くして頭を柔らかくすれば、誰でも考えられるアイデアで、企業家にも役立つ真理ではないだろうか。某サッカークラブの監督が「美しいサッカー」を求めたことも理解できる。
文章において利口ぶりたいのかやたら難しい漢字を多用する人がいるが、見ただけで読む気がなくなります。平易な言葉の簡潔明瞭が文章の基本であり美しさで。
日本の文化俳句や水墨画の余情は文章にも重要で、またひらがなを生かして漢字の個性が引き立つ真理も知らなければなりません、これは他者を活かして自分が生かされる社会のなりたちと同じ意識で、今書いている拙い文章と文章を載せているホームページも,余白や全体のバランスを意識て創作しています「ウインドウ(両横)一杯の長文は読みづらい」。
専門家の視野の狭さはよく耳にする言葉ですが、3.11以後の多くの専門家は評判を落とした。原発問題は原発の危険より、それを管理する専門家の視野の狭さからくる傲慢さと危機管理を頭に描けない硬直さがもっとも危惧されるところ。
このように「美意識」=広い視界のなかの愛する対象を得る=ロマン、楽しさ、謙虚さ、感動、広い世界、アイデア、夢、調和と秩序、上達、ポジテブな人生, 他者愛 社会のためになることを欲する。につながり、これらはどれも人間だけが得られる豊かな情感「視界」であることに気がつく。
美を意識できることは神様がヒトだけに与えてくれ宝物。ヒトを人たらしめると同時に人生をポジティブに全うする法則のように思える。
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「習う」という行動は社会や他人を意識した自らを向上させようと「律する」謙虚さの現れであり、他人へのひとつの礼儀を表しています。
日本人はちょん髷時代から習い事を楽しみ、日本の文化として俳句や水墨画の精神に見られる「余情」=「自我を惜しむ」という豊かな情感を持ち得る国民であることは世界に知られているが、日本人の謙虚、礼儀、勤勉は美意識によるものだと言えます。
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2012.10.29 GoogleストリートビューはArtだ!。 |
グーグルサイトにビュー可能な世界地図があります。ビュー範囲は今のところ西欧が主体だが、中でもイタリア、フランス、クロアチア、チェコはほぼ全域がSビューエリアで、PCの国別写真保存フォルダは15を超えた。その上イタリアにはサブフォルダの「ナポリ、ローマ、シチリア島、ブローチア島、」があり、最近「マッターホルン」を新たに加えた。
見慣れないイタリア側の南壁だが、スイス側の北壁と違い麓は明るい陽光に溢れて水彩の題材に向いている。また雄大な山脈と小さく見える人間の対照が良い。
ドイツとスイスは何故かSビュウエリアは少なく、北壁はなんとかエリア内で雪山のマッターホルンをゲットできた。現場は雪の山脈でSビューの住所検索は難しいが、前方にあの見慣れた北壁が現れたときは感動した。「陶器でもマッターホルンを作った」
全域がエリアの4か国を足しげく周って感じたことは、陸続きの歴史の重みと構造物が大きく重厚な点が共通している。破壊と創造を繰り返してきた人類の歴史を感じない訳にはいられないが、そんな感慨からかビュー画面を進みだすと止められなくなるくらい魅了される。
私のサイトに「自己愛と他者愛」があります。
哲学的にはエロスは愛や恋を指すが欲望による自己愛とされアガペー「神の愛、天上愛、他者愛」とは区別されるが。芸術的にも二つの愛は万国共通の題材だろう。
画家トム.ロバーツの言葉 「愛するものを描き描いたものを愛する」 私の追加する言葉「礼節」を重んじることは他人を意識した重んじる姿勢。「学ぶ姿勢」も重んじている「人様」の他人に自己を合わせようとする礼儀的行動。⇒敬意と自らの謙虚さを表す。そして「Art」は自然や生物などの他者を愛してその大切さを訴えたい愛する価値観を共有したいという他者文化の創作行動と言える。
昔から信義を重んじたり習い事などの文化に親しんだ日本人の行動は、他者への一つの礼儀であり礼儀深い日本人の特徴となる。
また他者愛 は究極の自己愛であり、自己愛は究極には争いを生む欲望の愛である。なので豊かな文化とは自己愛を超越できた、弱者や老人、子供や女性を労われる豊かな人を増やし、貧しい文化とは自分のことし考えない貧しい国民を増やし、殺伐とした争いの絶えない不幸な国家となる。
人は日本も含めて災害や戦争に翻弄されながら生きてきた。ストリートビュー画面は上から写されているせいか人物は小さく儚い庶民に感じて愛おしく、ひとときの庶民の幸せを描きたいと願った。もともとArtや哲学はこうした人間の不条理で不確実性に萌えるように出現するものだが、そこに共通する「愛」はArtの重要なコンセプトである。
Sビューで他国の風景と風景のなかの人々に接すると、写真でありながら写真にない現場に居るような連続した臨場感があって、天から眺めるように情感深く感じられるのは私だけであろうか。その理由は撮影する角度が高いことと、さらに地球の表裏を簡単に行き来できるバーチャルでありながら科学的に進んだ世界だからである。
これはまさに天上愛であり他者愛なのだ。そしてそれを感じさせる新しいArtの世界でもある。
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2012.3.1 活け花と絵を描くこと |
ご近所からバラの花を頂いて寺小屋教室の題材を急遽変更してバラを写生することになった。
風景画に没頭したいた私も花瓶に活けられた「活け花」に華を感じて写生した。妻が活けたのだが他の花とうまく組み合わせて描きたいと思わせる風情が漂っている。
写生しながら感じたことは絵を描くことは画用紙に活け花をするようなものではないか。花を活かすのは花器だけではなく、伸び伸びと組み合わせた調和の妙、配色、形などを花器となる画用紙に活かすことである。
その他活け風景、活け人物、活け静物、活け花など画用紙は額縁として花器のように愛する対象を構築して輝かせるのである。 |
選挙ポスターと消火栓、学童のいる水彩画Gallery2 |
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07,1, 芸術がヒトを人間にする「画家千住 博氏の言葉」 |
1月25日の中日新聞夕刊、文化欄に画家で学者の千住博氏の「芸術がヒトを人間にする。」コメントが載っていました。「事件のたびに論じられる人間性欠落は、文化的芸術的発想の欠如にある。美を求めたり創造する行為は芸術だけでなく科学、政治、スポーツ、社会道徳など人間としての文化的生活に直結するものである」という内容です。
当サイトを似たような趣旨で運営している私にとって全く同感です。
花を美しいと感じる人は絵画に描き写真に撮り壁に掲げようとする。その行為は単に色彩の鮮やかさを見るためだけでなく、花のもつ生命力や桜のような散り際に感動したりして、その感動を他人と愛でたり、お互いが美しさを尊び共有したり、それらの想像力のコミニュケーションが進んで文化が育まれる。
これが他人を意識した文化的でより良い社会にする芸術創作行為と言えるでしょう。芸術的イマジネーションを膨らませてコミニュケーションを計ることにより社会と科学は発達してきた。
美はあらゆる人間の行動に調和と節度をもたらす。節度を乱すものを嫌悪すべき醜として、スポーツ選手の理にかなった無駄のない美しいフォームであり、企業の社会的責任を自覚できるバランス感覚であり、社会人としての節度をもった人間を育てる。
私は考える。会社の社長や知事市長などはオーケストラの指揮者の感覚が必要だ。政治家に美しい日本を脳裏に描ける芸術家の感性があれば、真に豊かな文化を共有できる「美しい国」になるだろう。
しかし先生方の行動を見るかぎり権力に離合集散する風見鳥ばかりであり、権力志向でのし上がってきた人たちに「美」に関心がある人はいない訳だから当然と言えば当然だ。
最近一つの真理を発見しました。出世された立派な人たちに何故不祥事が多いかの答えです。トップに登りつめた人は強い権力志向をもち、常々風見鳥として流れを読み権力に媚び「友人を裏切り」ライバルを踏み台にしてのし上がってきた人だから、調和だの信義、道徳、美学などはあるはずがない。
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05,3,作家の佐賀純一氏の言葉 本当の勝ち組 |
「30歳そこそこで何百億の資金を動かせる人がいて、自分はほとほと負け犬だと思い憂鬱だ」という問いに氏は「キリスト教、仏教、儒教でも金銭だけを追い求める人は最低の種類に分類されて地獄に落ちると教えられている。
ではどんな生き方がよいか?昔は琴棋書画を愛する人が多く存在して、それは詩、音楽、書画などに親しむことが一番人間らしく大切で最高だという認識を当時の人々は持っていた。そうした世界を愛することは貧しくとも迫害されても自分の信念を通せる人で、渡辺崋山は幽閉されても絵を描き必要とあらば権力を批判した。
いつの世もそうゆう人がいて本当の人生の勝ち組とはそんな人のことだよ。」
フランスの哲学者パスカルは「良識」を「ボンサンス」と言った。英訳すれば「グットセンス」。
佐賀氏が言わんとしたことは、芸術や文化に親しむ人はバランスの良い生き方、学びすととしての幅の広い考え方、センスの良い対応ができてそれが長い人生の一番の幸せ、勝ち組だということでしょうか。
05,3,1の「独り言」ライブドアとフジテレビ
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