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「自己責任」は全体のなかで個人が責任を果たせる文化です。文化とは「より良い社会の潤滑油」と言われている。
自己責任論  
 自由と平等は個人に与えられた基本的な権利です。また礼節を重んじることは他人を重んじることで人間社会の基本的なルールです。この二つは共に大切なことですが与えるものと求めるものとの相反する部分があり調和が必要となります。
 前者は憲法で保障されてますが求めすぎたり履き違えると他人を軽んじることになります。個々の価値観とそれぞれの重んじるものや求めるものは立場の違いにより違うことを理解して調和を図らなければいけない。
 茶道は招く主と招かれる客人との立場の違うそれぞれの礼儀、心ずかいを示しあってお互いを重んじあう日本独特の「和」の文化ですが、その他全ての人間関係、親と子、老人と若者、健常者と障害者、国と国民、先輩と後輩、生徒と先生、患者と主治医、世界と日本などが、立場の違いを理解せずにお互いが求め合ったら争いは絶えません。
 与えるものの善意をお互いがキャッチボールできれば、人と人とのしみじみとした信頼感に浸ることができ、それがさらに他人を重んじる礼節を深めていき、その結果「自由と平等」はことさら声高に主張する必要が無くなります。求めることは控えめで与えることが多い理想的な人間性を形成する。 
 ところが現実は逆で常に損か徳か、有利か不利かの打算的な求めるだけの行動になり、老人や身障者から引ったくりをするような自分さえ良ければ良い世相をつくりだしている。
 例として、車は今日乗せてもらったり乗せたりして善意のキャッチボールを身近に楽しめる文明の利器ですが、単独事故に遭い乗せてもらった人が損害をこうむった場合に、お互いの立場を尊重しあえる茶人の心と、運転手を信頼して乗った自己責任をわきまえる礼節が必要です。善意のボールを投げてくれた友にタクシー乗車(営業)で被害をこうむったがごとく100〜120%の請求をすることが今日の当然の風潮になってはいないでしょうか?。 
 幸い裁判所は人の善意と自己責任とに配慮した判決が出されるそうですが、つくづく人間界は自己中心的では成り立たない、他人が、「社会」が成り立って自分が生かされる場所であることを思わずにはいられません。
06.11.20 いじめの責任は親か教師か
 いじめは昔からあったが生きることに厳しく、復興する希望と庶民的連帯があり今日のような深刻な問題に発展しなかった。貧しさは登るべき道をはっきり示すが、豊かさと自由のなかでは人は迷へる子羊となる。現代は豊かさの負の遺産「数字を追うあまりのモラルの欠如」が進行中。
 @幼児に何万円もする殺人ゲームを買い与えて夢中にさせ、小学生には携帯を持ち頭は情報過多で身動きがとれず、仮想か現実か、生か死かの区別に疎くなり、その反動で人間関係と社会性が未熟でうまく対応できない。
 Aテレビで食べ物を粗末にしたり後輩をいじめて笑わせて喜んだりして品格と節度のないマスコミの姿勢を黙認している社会。
 B子どもは「跳ね返す強い相手」にいじめはしない。打たれ弱い子に軽蔑感をもち自分の影響力を試して優越感に浸る心理があることも知るべきである。わが子を打たれ強くすると同時に、一つしかない命の大切さ、ペットを飼うなどして家族で可愛がりその死を悲しむ情緒を育てる。「核家族化」で祖父母の愛情と死別を体験できない点などを考えると、家庭での情操教育がいかに大切か、それを自覚する親が少ない。
 C子どもを守るのは家庭だという信念がない。子は親の背を見て育つもの。その意味でいじめっ子の親は子どもに充分な情緒教育をしてこなかったと言わざるを得ない。またわが子がいじめられないかを心配するだけで、いじめをする心配を親がしないことも問題だ。幼少のころから「人さまに迷惑をかけないこと」と「悪いことをしたら地獄に落ちる」「弱いものいじめをすることの卑怯さ」を身をもって教え、それを背中で示す父親が少ない。
 その上教師に責任転化する道徳観のなさ。。親が子を守らずして誰が守るのか。人任せ、学校任せの無責任な親が多すぎて社会のコアになる家庭の形が崩れ、家庭崩壊⇒道徳崩壊につながっていく。
C学校の「履修問題」にもみられるように受験志向だけの教育だったことが露呈した。企業、マスコミ、家庭も同じように数字だけを追う価値観を長年持ち続けてきた結果が、モラルハザード「道徳崩壊」と言われる今日の現状である。
 D優秀な教師は生徒に目が向いているが、管理職志向「権力志向」が強いろくでもない教師は校長や教育委員会に取り入り要領よく出世する。現実はこのような信義を軽んじる「自己愛管理職」に支配されている教育界、また日本であることも知るべきである。だから「お詫び会見」などの不祥事が絶えない。
D弱者を思いやれる真の豊かな社会「道徳観や信義を重んじる社会」はどうしたらやってくるだろうか。
当サイトは「小さななモラルを大切にする」がテーマですが、それにしても政府は造反組を数合わせだけで復党させようとしていますが、国民への信義はそれで立つのでしょうか?。
和風の美学 
 「和」に関連する言葉を調べると、和人、和風、和服、柔和、和解、温和、和戦、平和、和歌、和議、和紙、和船、和訳、和食、大和、日和、中和、調和、和気、和漢、和姦、唱和、、、、と数多く出てきます。意味することは「穏やかな日本、日本人」といえるでしょうか。また和⇒輪⇒環から人の和、世界の輪につながる意味も持っています。聖徳太子は「和を以って貴しとなす」の言葉を残しました。これは争いを避けて和を重んじる意ですが、それだけでなく人間同士が心を以って事にあたればおのずから道は通じる。「調和できる」という深い教えだそうです。
 「調和」と言えば宇宙、地球、自然、身体、社会も調和することで成り立っています。人体は何兆という細胞が生命を維持するためにうまく機能して活動し、自然は幾万種類の生物が生態系をつくり生命を育む環境を維持している。地球は太陽系のなかで生命の源である水と大気を得て回転しており全て調和した環境にある。
 日本人のこうした自然観、宇宙観が独自の「和の心」「和を重んじる国民性」「調和と融合の精神」を形成してきたのでしょう。「和風」には和の心を感じさせるような穏やかさがあります。食事どころや旅館は洋風にはない「間」が設けられていてそれが落ち着きを与えます。床の間、縁側、またそこここにさりげなく活けられた一輪差し、光をやわらげる簾(すだれ)や障子、日本式庭園、蹲、そして茶道、活け花、和歌、俳句、盆栽など自然と調和する癒しの文化を育んできた。
 この調和の心は個人も企業も社会と調和する規範を持ち社会的責任を自覚出来る。健康な人体も、健全な社会や平和な世界も、他者「全体」と一体化することで調和が保たれる。私の父と息子を奪った癌細胞は自分のことしか考えない反調和、反社会的異端物です。 
 ただ昨今は「人様に迷惑はかけられない」「謙譲の美徳」「他人を尊ぶ気持ち」など昔の日本人のようなつつましさがないから、聖徳太子の格言も格言にあらずの感です。特に砂塵の舞うイラクの辺りは、家庭の和、職場の和、チームの和は理解できるでしょうが、国と国、部族と部族、人と人の争いを「調和」させることは難しいでしょうか。お互いが相手の立場を理解しあい調和に努める真摯な人間としての態度を信じたいですが、、、04,5,4
調和の振り子

 
イラクで邦人が拉致された事件で浮上した「自己責任論」に内外のメデアが批判的ですが、私はこの報道のあり方に疑問を呈したい。@外国メデアは家族の強硬な要求や、解放された邦人の居残り発言等の経緯を知っての批判だろうか。A自己責任論について、アメリカ人は冒険やヒーローに価値を求め一ヶ月に100人の戦死者が出ても平気で野球などのスポーツを楽しんでいられる多民族な国民性。日本は3人が拉致されてだけで大騒ぎななり、対策本部が政府内に設けられるナイーブな民族で、それゆえの、自分の命を大切にしろ、という言葉だと思いたい。国の文化の違いとそれぞれの長所短所は、一概によその国がそうだからとは言えないものがある。
 また和を重んじる国民性は西洋の個人主義と違って他人と協調性があり、人さまに迷惑はかけられない気持ちを持つ。そして和⇒調和⇒バランス感覚に優れて調和の振り子が動いたと考えられるBゲストを招いたワイドショウについて、1、司会者、テレビ局のコメンティターが自説を述べ過ぎだ。司会者は中立であるべきで、また局のコメンティターは司会者の指示に従い自説を述べるだけにするべきなのに感情的な司会者が2人いるかのごとく進行させている。
 2、「街の声」で歓楽街の酔客にインタビュウしている。また自説に賛同する意見ばかりを放映しているのではないか。100人にインタビュウしたとしてそのうち何人が賛成なり反対なりと言うべきではないか。3、これらの雰囲気にゲストも同調して「自分の子が誘拐されて犯人からの要求を主人が拒絶したとしたら私は主人を殴りますよ。」、等々。国策を追求する一国の首相に感情的な親と同じ行動を要求する女性ゲストと、そのことに誰も異論を唱えない知識人の良識。
 しかし国民の大多数は振り子で「調和」「日本の心」を示したわけでホットしました。願わくばこの心を外国の人々に理解をしてほしいが、日本人にも分からない人がいては無理ですね。04,5,4,
自己責任
  イラクで日本人が拉致されてさまざまな意見が噴出した。「人の命は地球より重い」「自衛隊はすぐに撤退すべきだ」「親の気持ちがわからんのか」「自分の意思でボランテアに出かける崇高な精神」「自分の息子だったら首相は平気でいられるのか」等々家族や家族を支援をする人たちの自己主張する言葉であった。
 平和や人命の大切さは誰もが思うことだが、戦争というものはお互いがそれを強硬に主張することで発生している。平和や命の尊さを主張するだけで手に入るような世界はどこにもない。国策は5年10年後の日本の利益。お互いの国の立場、置かれた状況、歴史的背景など、広く永い視野に立ち考えられるだろう。
 3人の命を救うため金を支払ったり自衛隊を撤退させ国策を変えることは、テロを容認して温存育成させたことになり世界中から顰蹙を買うだろう。また自己主張する組織から日本がターゲットになり、多くの日本人をを危険にさらすことになる。その結果平和憲法を放棄して軍備に頼らざるを得なくなり若い人を戦地に送り出すことにもつながっていく。
 政治家は国民の幸せのために働き、国民も幸せや自由を求める権利はあるが同時に国民としての義務、人間としての責任を負うべきで、それを忘れて求めるだけの対立的社会風潮になってはいないだろうか。中学生がボランテアでイラクへ行きたいと言っても、崇高な精神だからと認める人は少ない。それは個としての責任や義務を果たすことができないからで、ボランテアをするつもりが逆に多くの人々に迷惑をかけてしまう。
 国としても救出の努力や危険、負担を無制限出せる訳がない。NGOやボランテアは自己責任で行動してこそ世間から評価されるのではないだろうか。また心ならずも迷惑をかけてしまった場合にきちっと責任をもった説明ができる精神年齢に達することが「人の世話」より先決に思えます。 
 「アメリカは自由と民主主義を他国に求め(それはアメリカの利益にかなうから)イラク国民は主権を求め、部族は権益を求めて衝突している。」いづれも自己主張です。04,4,20

05.4.30 機械と人間
 悲惨な鉄道事故がおきました。運転手も亡くなられましたが写真で見る遺影はあどけなさの残る若い人でした。何百人もの命を預けるにはいかにも心もとない少年の顔に見えましたが、年上の車掌が暴走を感じながらブレーキをかける役割を果たせなかったのが残念です。人の心は日によっては心身消失やイライラ、睡眠不足で体調が悪かったり冷静さを失った状態になり得る生身の感情の動物ですから、機械化がいくら進んでもそれを操る人の感情を制御できるマニュアル作りとかペアを組む車掌の役割に管理者は心しなければならないと思いました。          
なぜ社会は悲惨な事件事故があとを絶たないのでしょうか。JP西日本の鉄道事故「人災、不祥事」の余韻が冷めやらぬうちに飲酒運転の車によって青春真っ只中の生徒3人が命を奪われました。社会の無情さに悲しみと憤りを禁じえません。いずれも運転手のちょっとした不注意や傲慢、不遜、横暴さが招いた事故ですが、機械としての乗り物はどんどん軽く早く高性能になりますが、それを操る人間は全く進歩性がなく個々に「心のブレーキ、マナー」が備えられていなかったら、ブレーキのない凶器を操るに等しく科学も無意味に帰します。それをなくするために社会はルールやマナーをつくり管理者、監督官庁があるはずですが、今回の怒りをぶつけるとすれば警察ということになります。
 飲酒運転の罰則は重くなったものの夜間の飲酒運転は無法状態が現状です。それでいて昼間の「一旦停車」違反などは見えないところに7〜8人も隠れていて、ブレーキをかけ低速で左右の安全を確かめて通過しようとする車に止め、「一旦停車」の意味をくどくどと述べて反則キップを切る自動車学校の教官のような警察官の行動は「他にするべきことがないのか?」と言いたくなるのは私だけでしょうか。
 そして日頃から社会人としてのマナーを遵守することに一人一人が気をつける風潮を維持しないと、暴走を暴走だと自覚できない人を増やすことになり、つくづく社会は美しいもの「日本人の美意識、礼節、茶道、華道、もののあわれ、侘び寂び、謙譲の美徳、美談、調和、ボンサンス、名画、名作、美しい行為、美しいスポーツフォームなど」に感動し尊べる豊かな文化「それは醜悪を憎む心につながります」を育むことの大切さを痛感します。
05.5.1、  本当の勝ち組
-----5月1日の中日新聞サンデー版に開業医で作家の佐賀純一氏の文章が載っていました。「30歳そこそこで何百億の資金を動かせる人がいて、自分はほとほと負け犬だと思い憂鬱だ」という問いに氏は「キリスト教、仏教、儒教でも金銭だけを追い求める人は最低の種類に分類されて地獄に落ちると教えられている。。ではどんな生き方がよいか?昔は琴棋書画を愛する人が多く存在して、それは詩、音楽、書画などに親しむことが一番人間らしく大切で最高だという認識を当時の人々は持っていた。そうした世界を愛することは貧しくとも迫害されても自分の信念を通せる人で、渡辺崋山は幽閉されても絵を描き必要とあらば権力を批判した。いつの世もそうゆう人がいて本当の人生の勝ち組とはそんな人のことだよ。
 フランスの哲学者パスカルは「良識」を「ボンサンス」と言った。英訳すれば「グットセンス」。佐賀氏が言わんとしたことは、芸術や文化に親しむ人はバランスの良い生き方、学びすととしての幅の広い考え方、センスの良い対応ができてそれが長い人生の一番の幸せ、勝ち組だということでしょうか。
 鉄道事故は会社側が目先の営利ばかりを追求してきた結果、乗客の安全という大切なことに目が届かずに社員にも近視眼的でセンスの悪い教育をしてきた因果応報であることを見せつけられたような気がします。「なにごともほどほどが肝心にして極意なり」で、先鋭化すればするほど土台は細く不安定で選択肢は狭くなります。良き鉄道マン、社会に貢献する企業理念、良識ある人間などへの教育やマニュアルが欠落して、まさに乗客への礼儀と節度を忘れていたと言わざるを得ません。
 経営者はついつい数字を深追いしがちですので社内にブレーキ役の「良識課」を設けることも真面目な考え方ですね。
 人間はいろいろなことに興味を持ち、美しいものに触れたりサッカーや野球に感動し、謙虚に真実や人生探求をして幅の広い選択肢を持った生涯を目指すことが、結局は心豊かな人生となるということでしょうか。
 私のライフワークも少しは意義があることかなと思い当サイトの更新にも意を強くした次第です。

 

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