お釈迦様 観音様 お稲荷さんとは 2018.1 |
お釈迦様 |
釈迦は仏教の開祖でネパールの王族であった釈迦族の王子、ゴータマ・シッダールタという実在人物だと言われている。
教えでは、この世のあらゆる生き物(神様も含めて)は死んでは生まれ変わって、どの生でも病気になったり好きな人と別れたりと必ずさまざまな苦しみを味わいます。そのことを悟って無限の輪廻から解き放たれた人のことを仏(如来)と言います。
釈迦はこの仏が人の姿を借りてこの世にあらわれ、仏の道を人々に説いたのであると仏教では説明されている。
日泰寺 13宗派
|
観音様 |
観音様は観世音菩薩もしくは観自在菩薩の略称。菩薩とは大乗仏教において、将来仏になることが約束されているが、現在はまだ修行中であり人々やその他すべての生き物をを救うためにこの世で頑張っている人たちのことです。
観音様はその菩薩の中の一人です。菩薩も観音様以外にたくさんいらっしゃいます。
有名なのはお地蔵さんで、地蔵菩薩という菩薩の中でも特に地獄に落ちた人たちを救済するという最も厳しい試練に挑んでいる方です。
尾張四観音 大須観音
|
お稲荷さん一番多い |
お稲荷さん(稲荷神、稲荷大明神)は日本古来の神様で白い狐の姿をしてはいる。狐や狼は田畑を荒らす害獣を食べるので田畑の守護神として祭られてきた。稲荷の語源は稲がなる、稲で荷車がいっぱいになるなどがあり、そこから商売繁盛の神とされた。
五穀の神ウカノミタマにお使いする地霊で、厳密には神ではなく霊だとも言われている
狼や猪、蛇や猿などを神として崇拝する古き神道が弱まるなか、稲荷信仰だけが日本全国に広まった。
仏教のダキニ天は本来ジャッカルに乗っているのだが、日本にはジャッカルが居ないので稲荷に置き換えられ、神仏集合時は稲荷神=ダキニ天として祭られた。
ダキニ天には外法の術(神仏の道にはずれた呪術)があり、日本の神は祟という思想、妖怪・狐憑きという妖狐のイメージが重なり邪悪な存在と勘違いされたりオカルトめいた話も多い。
一時期は七福神にも参加していたが人の姿ではない、大黒天とご利益がかぶるなどからメンバーから外された。
五穀豊穣だけでなく陰陽師・安倍晴明の母は妖狐という伝承があり、占いや呪術にも関連づけられた。
歩き巫女など民間の呪術師は狐や狼の牙や爪、ドクロを隠しながら崇拝していたという。
有名な神社は京都の伏見稲荷大社(5円玉の稲の束は伏見稲荷大社の神紋)大阪の瓢箪山稲荷神社(辻占い発祥とも)
お千代稲荷 豊川稲荷
|
エッセイ 道しるべ1997,9 |
「一寸先は闇」という言葉があるように、人間は未来に対して盲目
に等しい。一歩を踏み出すのさえ正しいかどうか、不安にさいなまれる時
がある。その上正しさの基準は人それぞれの価値観、立場の違い、時代の推
移によって変化するからやっかいである。従っていつの時代も人間社会は過
ちの歴史を刻んできた。
このような不確実、不合理社会で人々が昔から頼ってきたのが「絶対者、
神」であった。科学の時代の今日においても神にすがろう、頼ろうとする人々
が多い。死に直面した病人や老人が「あの世」を心の拠りどころにすること
は良いことだとは思うが、若い人の信仰「神頼み」は安易にしない方がいい。
なぜなら生きることが神まかせになりやすく、それは教祖に意のままに操られ
やすくなることを意味する。自分の住む現実に疎くなり実社会でのさまざま
な経験、苦労、そこから得られる真理の発見ができなくなるからだ。
迷いの多い盲目に等しい人間が現実から目をそらしてどこへ歩めるのだろ
うか。また「自分の欠点を知らない動物ほど弱いものはない。」という格言があ
るように自分の不完全さや人間の弱さ儚さを自覚し、挫折を体験することは
貴重な教訓、処世術となる。
車の運転に御守りがないと不安を感じる人がいる。その気持ちが進
むと一つでは心配で三もぶらさげている人もいる。この例は信仰の落し穴を示
すものだが、安心を買って運転することは決して安全にならずむしろ危険であ
ると言う真理を知らねばならない。
現実から目をそして真理はない。私の車に御守りはなく常に自分の未熟
さと世の中の 不運、不確実性を認識しながら運転をしている。
吾子の墓 傘さしかけて 洗ふなり 順風
|
エッセイ 環境エンリッチメント 04,5,21 |
集団で生活する動物園の猿園に高木を植えたり蟻塚を作ったりエサ
を隠したりすると、興味を示し冒険心を刺激されてか表情が生き生きして、
檻の内のストレスや異常行動が少なくなることが分かった。「環境エンリッチ
メント」。「衣食足りて礼節を知る」とうが、動物「人も含む」にとっては衣
食の安定=生きがいにはならない訳で、生物の一員たる人間にとっても
興味深い研究結果です。
動物の本能や習性はさまざまだが共通しているのは「自然界での子孫
繁栄」」であろうかと思うんですが、言い換えれば食欲、性欲、母性等の本能
だけではなく、生体を燃焼させて維持するための日々の「興味」「刺激」「反応
」「学習」「競争」「工夫」なども生き物にとって大切なことではないだろうか。そ
れが心身を活性化させて健康な精神を作り集団に統制と社会性をもたら
し子孫繁栄に繋げていく。
従って衣食が足りることは逆に反自然的で子孫繁栄に不適当、不健康
な状態だと言える。換言すれば子孫を残す本能とは単に生殖行動だけ
なく、子々孫々が健康に暮らせる「環境」も本能の内だと言えなくもない。人
間も衣食を与えられているだけの刺激や興味のない人生は「営み」に
あらず、このような不健康な精神状態は自由社会で暮らしていても窮屈
な「檻」に感じる人もいるだろう。
「営み」とは自分が生きてる地球や自然、先人が遺した文化や歴史に興
味を持ち親しみ刺激を受けたり、挑戦したり、感動や学び目的等を得て子孫
繁栄をより確実なものに導こうとする行為であり、それは健全な精神として個
人の幸せ「求める」より、自然保護や恵まれない人々へのボランテア、社会
奉仕など調和したより良い社会作り「与える」に向かわせる。これが社会
中で自分の居場所が定まり生きる目的を得られる万人の環境エンリッチ
メントとは言えないだろうか。
|
エッセイ 教祖の理想卿 2003,11 オウム事件はこちら |
この世のなかには他人の心の隙間、悩み、孤独感等に取り入って金
儲けをする詐欺師が至るところで網を広げてカモが入るのを待っている。
ねずみ講のマルチ商法、毛生え薬等の類、新興宗教などだが、あやしげな
宗教は信者をまるめこむため未来を予見できるがごとく、災いを避けられる
がごとく、幸せや理想郷をエサにすることと、信仰から外れた時の不安を
煽る上げ下げの技を使う。
つまり煽って鎮め、鎮めて煽る二本の手を巧みに使い分けて信者を
コントロールする。 その門をくぐる人は何かの悩みを抱えており、また頼ろ
うとしているから教祖のお告げにたわいなくもろい。「今度の旅行はやめた
方が良い。あなたのお顔に不吉な影が見えます。」こんなことを言われて平
然としておれる人は門をくぐらないから、大部分の訪問者は「そんなことを
言われたのに、わざわざ行く必要がない」と軽々に逃げてしまうが、その結
果は次回からは何ごともお伺いたてないと不安にになり、教祖の意
のままに操られることになる。
お告げやお払いをする場所は家庭の食卓の上などではしない。厳
かなそれらしきものが祭られていてお供えの一升瓶や菓子箱が所狭しと
並んでいる。「たぶん中身は空」そしてお経が始まるが始めは地声で声を
小さくして、少しずつ声のボリュウムを上げていく。そのうち隠しマイクのス
イッチが入れられて地の底から響くように細工してあり、参拝者は音響で
催眠状態に入らされ、朦朧とした感覚を神秘的な体
験を得たと勘違いして○○教にはまっていく。
ただし入信してもばら色の幸せはない。凡夫がゆえのさまざまな疑問
、自分が信じたことを否定したくない葛藤、矛盾に苦しめられる。これは当然
のことで簡単に幸せや理想卿が手に入ったら宗教「教祖」はもたない。
また信者から「幸せになれない」とか「インチキだ」と訴えられないかと教祖
は案じなくてもよい。人は自分が信じたことを「間違いだった」と声を大にし
て言える人は少ないからだ。
また「信仰心が足りないからだ」という殺し文句に論破できる人もい
ないだろ。論破できる人なら馬鹿馬鹿しくて入信しない。
信者が深みに嵌るのは「もう少しの信仰で、努力で、修業でこの苦
悩から開放される、今の苦しみから解脱できる」という思い込みであり、こうし
た不安や苦悩、葛藤は教祖にとっては逆に好都合なことを知らねばなら
ない。何故ならお布施を末長くしぼり取りやすい教祖だけに都合のよ
い理想卿だからである。
|
|