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2023,2.13.田舎へ墓参り「岐阜県瑞穂市穂積」 |
現在の住まいは名古屋市千種区仲田ですが、小中学当時の住まいは岐阜の柳瀬に近い岐阜市神田町7丁目の賑やかな場所で、金華山と鵜飼で有名な上流にあたる長良川も遊び場所でした。父母の親は鵜飼で有名な長良川の下流になる、東海道線の鉄橋の下方「穂積」に祖父が「船大工」をしていて、またその周辺には従弟が多く住んでいて、学校の夏休みには釣りや泳ぎなど自然豊かな田舎でひと夏過ごすことができて、今日の自分の生き方、趣味等に影響が大きいと感じています。
先日に久しぶりで墓参りに出かけて、従弟たちと会い田舎の変貌に年月を感じましたが、墓地の桜の木が大きくなり、小川は澄んで水が綺麗で自分の大切な故郷であることを実感し、合わせて平和な日本にも感謝しました。
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日本人の宗教観 |
日本では葬儀は仏教、正月や子供の誕生祝いは神社、結婚式は教会でという、一神教の欧米では理解されない宗教観があります。生活に複数の宗教を受け入れる日本は、無信仰の人が五割を超える統計の結果かもしれませんが、国民の受容性の高さや多様性という観点からは望ましいと言えます。
何故なら国民が「一つの信仰に凝り固まる」ことは、視野が狭くて見えない部分があり、自由な意見は封殺される危険が生じやすい。「危険を孕んでいる。」
しかし日本人の根底に他人を敬うという、争いを避けるいにしえの共有文化があることは良いことで、偏ることのない「礼儀深い」国民性は「自分ファースト」な現代では尊い文化だと言えます。
当HPの管理人も最近は古刹巡りを楽しんでいますが、その心は宗教心ではなく、過去、現在、未来につながる歴史の重み、命の継承があり、特に古刹の朽ちた木の風合いは、先祖の汗や涙が浸み込んでいるようで、先祖を通して未来につながる現代の自分の存在、チリほどの生命の継承でも自然に手を合わせられ首が下がる。
宗教に関しては親の代からの伝わる「西本願寺」で、「仏間」の仏壇の上には故人の遺影写真が掲げてあり、いつも私たちを優しく見つめていてくれます。
花の水替えや御仏飯を供えて、今日の感謝と自分を戒める手を合わせます。京都へ行けば駅近くに「西本願寺」の本殿があり、立寄って手を合わせますが、お賽銭だけの信心ですが恥ずかしくは感じません。
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文化庁の「宗教」に関するページ。統計的な部分は説明で理解しやすいが、宗教の問題点を指摘する記述はない。なので一般的な宗教観に疑問があれば自分で宗教のこころを学ぶしかない。
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宗教( しゅうきょう 、 ( 英: religion)は、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系だと言われている。
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管理人の宗教観 |
一般的に信教勧誘は不安を煽ることからスタートで、その過程は脅しなどは日常茶飯事な世界ですが、こころ優しい人の弱みに付け込こむ卑劣さと欺瞞は大罪であると自覚すべきで、またマインドコントロールされた人の脱会およびケアなどは大きな社会問題だと認識すべきで、闇深い欺瞞世界だと自覚できることが、正しい道を理解できて脱会に繋がります。 「幸せは自分で自覚するもの。苦しんでいても神は決して助けてくれません。自ら墓穴を堀ることも、悪質さは深くて関わるべきではない。
「マルチ商法」「振込み詐欺、」「国民のためをフレーズにして己の利権や私欲 に走る政界」「霊感宗教」が人間社会の四大偽装金儲けと言えますが、このなかで一番の悪質集団はどれでしようか?。
他人を監禁や脅しを手段とするカルト「霊感宗教」だと思います。さ らに脱会や脱会後のこころのケアは深刻で時間がかかり、一人間を破滅させるような精神的な問題が残ることを、すべての人が知るべきで,「ご利益がある」「幸せになる」という現実離れの甘い言葉にだまされること自体が、「自身の恥」だと自戒すべきです。
「信仰」は親から受け継いだ古仏壇があれば充分です。仏壇の無い人は神棚でも同じこと。
何故なら自身を戒めることを、ご先祖に対する主なる目的とするべきで、欲望を満たそうとすることなどは祖先から「神を侮辱するな」と叱られる理屈になります。
直近(2017年)でも幼稚園などの私学運営において、真の日本人を育てると「教育勅語」を掲げて幼児に繰り返し唱えさせる戦前のような教育「洗脳」をする人物を、真の日本を愛する「教育者」として崇め、政界も巻き込んで忖度等で美味い汁や寄付金をもくろむ行動も、新手の「国を愛する真の教育者詐欺だと言うべきだろう。
またあやしげな「ちちんぷいぷい」の輩と、議員や総理を努めた人たちが、得意げに握手したり肩をを組んだりの写真がネット上に溢れていたが、私には信じられない「先生方」のお粗末な態である。
「先生」と呼ばれる政治家が特定の教団の教祖と並んで「我こそは信者」を演出しているおぞましい愚行を、愚行だと考えられない市民国民を、その程度だと考えていることに目覚めるべきです。 |
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神仏にお参りするときに何かの願いことまでしてしまいますが、果たして願いごとが叶ったり困ったときに助けてくれるでしょうか?。
例えば安全運転のお札を車内にぶら下げて安全を得られるだろうか?。また一個では不安で二個ぶらさげたら安心が倍増するでしょうか?。宗教と人間をどのように捉えるかの良い例ですが、神に依存しすぎると自分の努力や注意が疎かになり、深入りすると過去のカルト教団のように危険な行為になりかねません。
管理人の車には安全札がありません。大半の運転手が掲げていますが、高齢者として反射神経や動体視力の衰えを自覚しながら、また世の中の不確実性、不運も視野に入れたり、雨降りや夜間はなるべく運転を避ける”対応”ができてカーライフを楽しむことができました。「すべてを神頼みにしない」「責任は自分でとる」という人としての自負をもつべきです。
80才になった時に娘に、都会の真ん中で住んでいて地下鉄やバス停が近いのに車が必要かどうかを問われて、「無し」を即決しました。お陰でカーライフは「事故なしで」終了し、熱田神宮へお礼参りをしてきましたが、現在はスポーツタイプの自転車を買い、初めは前傾姿勢に不慣れでしたが5,6回乗れば馴れて、ヘルメットは必ず着用して町中を走っています。
下の「霊感宗教」のような悪質さはないが、京都の名の通る寺でも「一度だけ願い事がかなう」というフレーズで、その願い事の効果的なかなえ方を有料で聞かせ、またお礼参りまで誘導するような法話?もあり、その上法話を聞かないと(金を払わないと)参拝できない寺があります。
世界一の観光地京都として、「おもてなしの文化」の日本人としても外国の観光客に恥ずかしいのではないだろうか?。
今から60年ほど前に若い自分が住んでいた地域に創価学会が流行っていました。南区の団地という環境のせいか周辺は学会一色に染まっていたように感じたものです。
現在は統一教会が名前を売っていますが、自分の住まいがバス通りの賑やかな商店街にあるせいか、以前「60年前」のような信仰の熱意、雰囲気は感じません。
私自身は当ホームページの「他人を敬う古の文化」が信条で、昨今SNS等でパワースポットが若い人たちの話題になっていますが、宗教=幸せを求めるあまり、自制ができない「自分を失う」過ちを犯しかねません。
他者「神」依存に傾いて、真の幸せが分からなくなり答えはでてこなくなるのが現実ではないか。
なので「現在の自分に感謝すること」ができれば、宗教に頼らなくても次なるエネルギーに向かうことができ、そうして創ったのが20年ほど前の当ホームページ「他人を敬う古の文化」で検索。自分の信ずる主義としてアクセス数「390万」に手ごたえを感じています。
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尾張四観音 とは笠寺観音 甚目寺 龍泉寺 荒子観音 参考大須観音
出かけてみよう!。古い建造物に歴史の重みを感じて、先人との繋がりなど感謝して手を合わせると、何故か明るいものに満たされる。願い事などは求めなくても、穏やかな安らぎを私たちに与えてくれて、その心が他者への愛に繋がり広がることが良い。
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徳川家が400年前に名古屋城を築き、鬼門とな,る四方の寺院を鎮護寺として尾張4観音と言うようになる。
南区の@笠寺観音、守山区の龍泉寺観音、中川区の荒子観音、愛知県海部市の甚目寺観音であり、すべてが千年以上の歴史がある。
江戸時代以降は季節を区切る意味の節分が立春(2月4日)の前日に行われる風習となる。
2?甚目寺=愛知県あま市甚目寺東門前24=052-442-3076=5本の指に入る古刹。12日が朝市=北=名古屋市南区笠寺町上新町83番地=052-821-1367=16日の市名鉄「笠寺駅」https://jimokuji.or.jp/(名鉄津島線 「甚目寺駅」にて下車後、徒歩5分)12日は朝市 2024年 12月 12日 (木曜日) 10時00分
B龍泉寺=東=名古屋市守山区吉根松ヶ洞=052-794-3647=ガイドウェイバス 竜泉寺口より 徒歩3分お問い合わせページ https://www.ryusenji.com/contact.php
C荒子観音=西=名古屋市中川区荒子町宮窓138=0)=地下鉄「高畑」徒歩9分荒子観音寺は、尾張四観音の一つです。
多宝塔は市内最古の木造建築物で、国の重要文化財に指定されています。荒子城主・前田家の菩提寺で、前田利家が越前に移るときに本堂を再建したと言われています。山門の二体の仁王像は円空の作で、他に1200体余の円空仏を所蔵し、毎月第二土曜日の午後1時から4時に一般公開されています。
052-361-1778●あおなみ線「荒子」駅下車。徒歩10分
●地下鉄東山線「高畑」駅下車。4番出口より徒歩10分.7.00-17.00
年号 |
平成28年・33年
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平成29年・34年
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平成30年・35年
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平成31年・36年
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平成32年・37年
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暦(十干) |
丙・辛
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丁・壬
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戊・癸
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甲・己
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乙・庚
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恵方の寺 |
笠寺
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甚目寺
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笠寺
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竜泉寺
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荒子
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人間は人類になってから病や死を恐れて神仏を頼りとするようになった。信仰はそうした弱い人間の心の拠り所であるが、祖先から自分、さらに子孫への命の継承であり、神仏の重みはまさに「歴史、歳月」の重みに感じます。
例えば親から受け継いだ仏壇と掲げてあるご先祖の遺影はそれなり重みがあって、自分も違和感もなく自然に受け継げました。
また何百年も風雪に耐えてきた古寺も何かを感じさせるものがあり、無機質なコンクリートにはない朽ちた柱や軒の傷んだ木質感には、祖先の手垢や汗が滲んでいるようで、信仰心がない自分でも自然に首「こうべ」が下がり手を合わせられる。
それがささやかなものにも感謝ができる、首を下げられる日本人の宗教観かも知れません。
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金でつながる霊感宗教勧誘 2018;3
宗教を勧誘する人は、社会では普通の人物であり、ご近所で相手を「騙す」感覚もなく、むしろ友人知人を助けようとする親切行動でもある場合が多いと感じますが、当人が騙されている「正常な精神状態ではない」ことに気づかないことが問題であり、その部分を全ての人が自覚すべきで、「宗教での人助け」「信ずれば救われる」は、他人には迷惑この上ないまやかしで、他人を勧誘厳禁とするべき対象で有ることを自覚するべきである。
何故なら「世界の洋の東西には国が数かぎりあるが、それぞれに自分が信仰している宗派が一番正しいと言う行動には大きな矛盾があり信仰もほどほどが無難です。
また霊感とか神仏への思いは人それぞれで、誰も見たこともなく、現実と想像の堺目が曖昧で、逃れようとすると宗教の深い闇に落ち苦しむこともあり、人助けや幸運を運ぶという甘いお告げも期待すべきではないし、「自分を失う」「ど壺にはまる」などの深い闇があることを認識すべきです。
常に現実と空想、不幸と幸運、神と悪魔などを気にして生きては、何のための人生かになってしまう。それより「真善美」について考えることを人生の価値とすれば、自ずと道は開けるように感じます。
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宗教勧誘
宗教勧誘とは大部分が幸不幸をからめて除霊の壺や印鑑を買わされたり、献金と新たな信者勧誘を目論んで、「正しく導く」というフレーズでもっすともらしく勧誘されますが、90%が金儲けの邪道な世界です。
なかには毎月の給料の半額や財産があれば出家を勧めてすべてを寄進させて丸裸。そのような心境にさせる洗脳の手口で、家族ともども家庭崩壊の悲劇を被ることもあり、まさに「神の顔をした悪魔」が右往左往しているのが現実の人間社会であると言わざるを得ない。
また神は困ったときに助けてくれません。この当たり前な現実に盲目的な信者が多いように感じますが、「素直で素朴」な人たちを食い物にしている「教祖」や「信心者」は、自分の弱みを見せないで高圧的になりがちですが、それに対して毅然として対応することが肝心です。「その前に近づかない事が最も大切」
また一度入った者の「脱会」はさらに複雑難題になる世界であり、自分の確たる信念だけで行動しないと解決されません。
日本国憲法第20条
@信教の自由は、何人に対してもこれを保障するいかなる宗教団体も、国から 特権を受けたり、
政治上の権力を国民に行使してはならない。
A何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
B国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
してはならないのに国民を守る立場の国会議員までが、この宗教は「正しい宗派です」と言わんばかりに教祖と自慢げに写真に収まる姿をネット等でよく見かけるが、恥をしるべきおそまつな醜態であり、この醜態を自覚できない「先生」方の多さに呆れるばかりである。「彼らを選ぶ国民もその程度の認識しかない」と言わざるを得ない。
言いかえれば宗教界と政界は「同じ穴の貉」
それはどういう意味ですか?グーグル先生が教えてくれます。
おなじあなのむじな 一見して、別もののように見えるが、じつは同類であることのたとえ。 利害関係を一つにする仲間のことで、多くはよからぬ同類をいう。 「狢」は穴熊(あなぐま)のこと。
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この人は信じられる良い人ですと言わんばかりの写真を恥とも考えられない、そのようなおそまつさが日本の政界の現実なのです。
たった一人の人間に多くの学歴の高い立派な人たちが、たわいなく騙されたことを人間の愚かさや脆弱性とすることを肝に銘じるべきですが、何故詐欺師が後を絶たないのでしょうか?。
例えばマルチ商法は新聞等で多く報じられながら、引っかかる人が後を絶たないことに理解できなかったが、人生を高級車、豪邸、高学歴等の高低大小で評価をする人は価値観が極端で、「低小」は軽蔑し「高大」は尊敬して憧れる=従って豪華な建造物や会場等の偽装された煌びやかな雰囲気に、たわいなく弱くて、その結果「高大に平伏す」→「権力や金銭」に平伏す→「今度こそ本当に儲かる。本物だ!」\(~\~)/
宗教に関しては中学での「社会科」の授業で「危険がある」に対して踏みこんだ指導が望まれますが、現実は曖昧にうやむやで済ましているようです。
逆説的にはたわいなく騙される人がいるから騙す人が跡を絶たないと言え、騙されないためには金銭欲から離れた文化的な趣味を持ち「高低大小」ではなく他人と共有できる横並びの視界の広さ」が人生を豊かにするはずですが、戦争の悲惨さを語る人が少なくなって、再び社会は傾きつつあり、先の戦争で亡くなられた多くの善良な市民や兵士の御霊に顔向けができない気持ちです。
この現実を鑑みると、「社会が緩んでくると善悪は曖昧になり、再び自分ファースト「慢心」に毒されて、希望の将来が遠ざかり、墓穴に嵌るのではと暗い気持ちになってしまう。
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エッセイ 戒律 2008.7.
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宗教は人々の心の拠り所になりますが、度が過ぎると弊害をもたらします。どのあたりが妥当か?。手を合わせたり頭を下げる祈りは、自らを真摯にさせ自己を律する。この程度の信仰に留めることも必要です。
仏教の戒律は他の宗教にみられるように厳しくありませんが、それだけに 社会の一員として法律で定められない社会道徳などのルールを、自戒して規範としな ければならずこれが自らに課す戒律でしょうか。
自由な民主社会のなかでは自戒は重要なファクターになります。自己愛を 抑制して他人を意識した「礼節、信義、信頼、善意、謙虚」等の言葉に留意しなけ
ればなりません。留意することが他者「社会、地域、自然、他人」を重んじる「他者愛」につながります。
他者愛はエゴなどの自ら律することで社会に規範となる秩序をもたらすものです。
武士は命より信義、名誉を尊んでいたようですが、これは他者に真摯に対 応していたことであり、庶民も他人のことを「人さま」と呼び、人さまに迷惑をか けることを最も恥ずべきことだと考えていた時代がありました。
また何百年も前の貴族社会や庶民にも習い事を尊ぶ風習があり、その結果日本にはさまざまで豊かな文化が育まれて現在に 至っています。「習う」という行動は「祈り」と同じ自らを律する謙虚さの表れで、当時の文化として特筆すべき「豊かさ」です。
つまり社会や他人を常に意識し、他人のレベルに自己を高めて共有したいという現れ文化なのです。
1、仕事の定年はあっても社会の一員としての定年はない。
2、自己愛は結局は自らを滅ぼす愚考であり他者愛が究極の自己愛である。
3、仏教の「因果応報」の教えで自己愛者は、殺伐とした社会で自分や自分の子孫でツケ払わなくてはならないだろう。
4、逆に他者愛者には広く愛する対象があり、その愛を他人と共有したい 、知ってほしい、共に愛を分かち合いたいと、愛するものを絵画で描き、愛する ものを土で捻り「陶芸」、愛するものを言葉で綴り「エッセイ」、俳句を詠み、 キーボード「HP」を叩く喜びがあります。
5, 2016.10?ごろのNHKスペシヤルで「自分でつくれる100歳長寿者の健康体」が放送された。内容は生活環境もあるが個人の心の持ち方が重要で、地域に溶け込んだ他者への奉仕活動が健康に影響を与えるという、脳学者も「脳が社会に役立つ人を長生きさせるプログラムが組み込まれているようだ」と驚く内容です。詳細は
自分でつくれる100歳健康体センテナリアン
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大須観音の写経会のご案内※必要な道具はすべて用意してありますので、持ち物は不要です。
日時 : 令和5年11月28日(火) 午前10時〜11時半(90分)
場所 : 本堂1階ホール(イス席)
定員 : 30名(予約制)
予約 : 本堂1階 寺務所 9時〜17時
電話予約 052-231-6525 (9時〜17時)
写経題: 『般若心経』
志納料: 1,000円
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人生に美意識を持つことの意義 2013.6
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一般的には方針や規範、基準を示す言葉である
長年の私の趣味「釣、俳句、絵画、陶芸、エッセイ」を通して雄大な大自然に接してヒトの小ささを知り、また接客業で多くの客人の人となりに接したきたこと、テニスへの挑戦とサークルの人間関係、ご近所の付き合い等々の生活のなかで、人生に美意識をもつことの意義を強く感じるようになった。
真善美を訳すと「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。」とあり三者一体のようです。また美は日本の平均寿命の男女間の差に影響があるように感じます。
女性は高齢になっても化粧をされて身だしなみに気をくばります。その上友人を誘いお茶のみやデパート巡り、習い事等を楽しまれて、ポジテブに人生に順応されていますが、美への関心がロマンや夢、愛、感動につながり、その上日本女性は世界一の長寿や健康のデータがあり、男性にとっても嬉しい限りです。
一社会人としても美意識は「美しい社会」の重要なファクターになります。美を尊ぶことは醜を嫌悪することで、悪行を戒めて秩序を守ろうとします。汚職や権力争いが多い社会は、美意識に反する醜悪で悲しい社会です。
社会の隅に生きる弱者に心を配り、広い視野で秩序や調和のある社会づくりがで美意識によって秩序は守られてより美しくなります。格言「シンプル イズ ビュウティフル。」仕事や商いにおいても美意識は商道に反する行動を戒めます。花には水を、人には愛を、商いはこころを注ぐ。この文言が成り立たない商道は商道にあらず。
企業は美意識に おいて社会的責任を果たす意識が生じます。特に政治家はオーケストラの指揮者のような広い視野で調和と秩序のある美しい日本の、将来の設計図を書けなければれいけない。
強い弱いがはっきりと差のつくテニスのサークルでは、強者が人間関係も上であるかのような言動をとりがちですが、美意識からすると醜い行動であり、現実はメンバーの平等を趣旨とするポリシーを掲げざるを得ない。
スポーツ向上でも美意識は重要な感覚です。プロであれアマであり見た目に美しいフォーム=パワーに無駄や無理のない安定感のあるバランスの良いフォームが求めるべき理想で、上級者ほど基本(原点)に忠実です。
北海道の旭山動物園の人気の秘密は、特別なことをしている訳ではなく、少し視野を広くして頭を柔らかくすれば、誰でも考えられるアイデアで、企業家にも役立つ真理ではないだろうか。
また某サッカークラブの監督が「美しいサッカー」を求めたことも理解できる。
文章において利口ぶりたいのかやたら難しい漢字を多用する人がいるが、見ただけで読む気がなくなります。平易な言葉の簡潔明瞭が文章の基本であり美しさです。日本の文化俳句や水墨画の余情は文章にも重要で、またひらがなを生かして漢字の個性が引き立つ真理も知らなければなりません。
これは他者を活かして自分が生かされる社会のなりたちと同じ意識で、今書いている拙い文章と文章を載せているホームページも,余白や全体のバランスを意識して創作しています。「両横一杯の長文は読みづらい上に作者の人間性まで問われることになります。
専門家の視野の狭さはよく耳にする言葉ですが、3.11以後の多くの専門家は評判を落とした。原発問題は原発の危険より、それを管理する専門家の視野の狭さからくる傲慢さと危機管理を頭に描けない硬直さがもっとも危惧されるところ。
このように「美意識」=ロマン、楽しさ、謙虚さ、感動、広い世界、アイデア、夢、調和と秩序、上達、ポジテブな人生, 他者愛につながり、これらはどれも人間だけが得られる豊かな情感ではないだろうか。
中学卒業で家業「理容室」を継いだ私「管理人」の考えですが、80歳を越えた現在でも家業を営み、テニスや水彩画、ボケ防止のHPの更新を楽しんでいる現実に感謝です。
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09.11.11 「教えてgoo」で見つけた(幸せ)のグットセンス,「抜粋」 回答者tokytime
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この世には一見、不条理が存在するように見えますが、長い目で見た場合すべて相殺され、万人すべてに全く完璧な、例外の無い、えこひいきの無い法則が働いていると思います。でも、この法則が成り立つためには二つの前提条件が必要になります。
1)「原因と結果の法則」、つまり「因果応報」が全ての事象に働いている・・ということと
2)人は生まれ変わり(輪廻転生)の中で自己を向上させていくことが究極の幸福につながる・・ということです。
「人生は幸福度において人間等しく一様であるべき」が質問者様のご意見ですが、私は「人生はその行いによって受け取る結果が平等であるべき」と思っています。
人が他者に対してどんな動機で何を行ったか・・・
同じ行いでも悪意からか、善意からか・・
そしてその結果他者にどんな影響を与えたか・・
が全て洗いざらい並べられ、吟味され、プラスマイナスで計算された結果を受け取る・・というのが「因果応報」です。
この時、法則はすべての人に等しく平等に働きます。この働きにおいて人は、社会的地位、財力、人種、宗教に関係なく、等しく平等です。
一見厳しく容赦ない法則に思えますが、この法則をよく理解して、他者に対し慈愛と献身を注ぐならばプラスの大いなる実り(幸福)を受け取ることが出来るわけです。
この法則の偉大な究極のマスターが仏陀であり、キリストだったのではないでしょうか。
仏陀とキリストのこの法則に対する解説こそが、その教えとして後世に伝えられ、それぞれ仏教(ただし、根本仏教です)、キリスト教として残っているのだと思います。
人は、常に何らかの劣等感と悩みと困難をその人生に抱え込んでいると思います。
その困難の原因は何処から来るのか・・
前世の行いでしょうか・・それとも自己向上を目指してわざと生まれ変わる前に自分で設定し、故意に引き寄せたのでしょうか・・
生まれてしまうと忘れるのでどうだっかはわかりません。考えても、追求しても仕方のないことです。
ただ、はっきり言えるのは、その困難を乗り越える経験こそ、現在の自分を向上させるのに最も効果的な可能性が高いということではないでしょうか。
辛い苦しい経験こそ、乗り越えた後で、自分自身の人格の向上をはっきりと感じ取ることが出来ると思います。
そして、そうやって人格を向上させ、他者に対する思いやり、慈しみ、心からの献身、弱者に対するいたわり、自分より劣った者に対する優しさを獲得することこそ、将来、自分自身に幸福をもたらすのだと思います。(因果応報の結果によって)
◎宗教が自分を助けたり変えてくれるのではなく、宗教を含む人生の生き方を通して自らが変わる。人生に努力することで強くなることが「因果応報」。
◎HPやブログなどインターネットが自分を成功に導くのではなく、ネットを利用した自らの努力が自分を変えて成功に導く。
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超ポジティブなお婆ちゃん |
当店の道路にに面したウインドウに水彩画を掲げています。月に1〜2度入れ替えるが通行人が足を止めて見ていかれたり、リピーターも現れて店内の店主と目が合うと手を挙げて挨拶をされたり、なかには店内へ入り画用紙や絵具の銘柄を訪ねる人もいて地域の小さな文化的コミュニテイになっている。
その縁で一人のリピータが3月から教室に入られることになり、2月26日の教室へ見学に来られて皆さんに紹介した。
「以前から花は描いたことがあるが、このような風景画を描いてみたい」
と興味を持って頂いていた。とても前向きで臆するもののない明るいお婆ちゃんで、80過ぎかなと思っていたが89歳で驚いた。さらに曰く「この歳になった私に先生と呼べる人ができたことが嬉しい」
私は母親のような年配の人に大変恐縮した。そして芸術文化に触発される関心や感動は健康や長寿にも大きく関わっている、まさに栄養であることを納得。ちなみにリピータは女性が大半で男女の平均寿命の差も納得。
「習う」という行動は社会や他人を意識した自らを向上させようと「律する」謙虚さの現れであり、他人へのひとつの礼儀を表しています。
日本人はちょん髷時代から習い事を楽しみ、日本の文化として俳句や水墨画の精神に見られる「余情」=「自我を惜しむ」という豊かな情感を持ち得る国民であることは世界に知られていて、謙虚、礼儀、勤勉の言葉はは日本的な美意識によるものだと言えます。
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カルト |
勉学だけに邁進し人付き合いの学習に疎い大学生がターゲットにされやすい。宗教によって初めて「心、魂、精神」に触れて感動し、作られた永久の幸せや連帯を求めて入信する。実生活に未熟な彼らはトリックの超能力に惑わされて、悪霊や地獄におののき神秘の世界にはまり込む。片方の手で信者に毒ガス兵器やハルマゲドンに襲われる恐怖心や被害妄想を植えつけて、もう一つの手で「オウムは救世主」「出家以外に助かる道はない」と洗脳する。
こうした強引な信者の勧誘や教義に反発する家族や受け入れない社会に逆恨みして、オウム以外は滅びてしまえ⇒滅びる⇒オウムが改革する、とエスカレートし先鋭化、武装化して「集団ダイナミズム」を形成し益々閉鎖的、攻撃的、怪物のようなカルト教団に変貌していく。
自然のなかの一員に過ぎない人間が神とか超能力者、また他人の持ち得ない武器を保持し権力者の驕れる集団に変わった時、変貌の潮流は集団ダイナミズムを持ち教祖も意識しなかったような、モンスターと化して暴走は誰も止められなくなったと思われる。過去のこのような潮流に流される民衆の悲劇は歴史の教訓として数多い。
だがそのつど反省をしながらも過ちを繰り返す人間の危うさ、欠点、私も同じ境遇に身を置いた時「はまらない」という自信はない。結局過ちは繰りかえされることを自覚することだけが、唯一人類の英知なのだろうかと沈んでしまう。
ただ一つ宗教の虜になることは気の毒に思うが、宗教「神」を利用して金儲けを行う悪質度は奈落の地獄に沈むだろう。確実に!。
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他者愛「自分セカンド他人ファースト」 |
人はまず自分のことを第一に「自己愛」考えます。しかし共同生活する社会のなかでは周囲の人に対する礼儀や感謝、気配りも必要です。特に女性、老人、子供、障害者、もの言わぬ動物などの弱者に対する思いやりは、人間を人間たらしめる最も大切な精神であり、その精神は自己愛の対極にある他者愛として位置つけられています。
Artに関心をもつことは地球とか大自然に向き合うことですから、そのなかには地球環境から社会、生物、動物と人間などの生命とか愛などが対象になります。外にある大きく広いものに向けられた他者愛、または関心ということになり、他者を重んじる礼節や和に目覚めます。そして人間としての信義を尊び恥を知ります。
この反対軸の自己愛者はうっかりすると自分中心の歪んだ考え方を、社会の節度や戒律より優先して矛盾と邪悪性を抱えることになります。
礼節や信義、恥という言葉は他人を意識した言葉ですが、自分が良ければよい利己主義者は、無人島で住んでいるかのように他人を意識しません。
エゴイズムは出世の風見鳥として役に立つ人には異常な気配りはするが、その反動で役に立たない人は見下して、他人との信義や礼節は意に介しなくなります。大会社、大きな家、大きな車をステータスとして人の価値基準を大小高低で判断する。
国の中枢の政官に不祥事が絶えなかったり一代で金持ちになった政治家などは、「当たらずも遠遠からず」でしょう。
また自己愛者は「自分は又は自分の子供はよその子より優れている」という盲愛、過信、驕りをもちやすく⇒周りから崇められて当然だというわががまな権威主義、権力志向者になり⇒権力者に従わない部下などには過剰な反応をします。
他人を踏み台「虐げる」にすることに躊躇も罪悪感も無くなります。識者は贈収賄やセクハラ、パワハラなどを犯しやすい性格だと定義している。その上歪んだ価値観は自己の運命を社会や他人のせいにする「自己破滅」の過ちを犯します。
これは生体で異常増殖するがん細胞そのもので、他者愛が結局は自己のためであり、自己愛は結局は自分を滅ぼすと定義できます。また他者愛は見返りを求めないから過信や傲慢さ、他人のせいにする邪悪性はなく「あばたも笑窪の異性愛は別です(^−^;」、深めるほど広くて大きな世界と連帯できますが、上記のような歪んだ自己愛は共存する他者や社会を否定したブラックホールのような自己破滅行動に向かいます。
現代の親殺し、子殺し、自分の死刑を望んで無差別殺人に走る若い人たちは、自己「孤独」からの出口を見出せない歪んだ閉塞感や絶望感に押し潰さた姿ではないでしょうか。
「他者愛」を難しく考える必要はまったくありません。自分以外の大自然全体、例えば殺処分を待つ犬や猫を引き取り育てるだけで家族を得ることができ、小さな命ですが育てる行動は自身に愛や善なる健やかなこころを得られます。
また日ごろ何気なく働いていることでも一家の主は家族のため、主婦の日々の食事づくりも家族への愛で立派な他者愛です。なので時々に「家族のため」を自身に言い聞かせるべきで、それだけで至福や働く意欲が湧いて精神が前向き、ポジティブになり、近年はそうした「こころの持ち方、他者愛」が健康にも大きく関わっていることが長寿研究で解明されていて一石三鳥です。
多分 いやいや労働したときの汗とは、汗の質がまったく違うように感じる。味の違うその汗こそが長寿のエキスなのだ。
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尾張4観音の一つ 甚目寺観音の三重の塔
人間は幼くて儚い存在であることを自覚できれば、自然に手を取り合って睦会い共有共存できる社会が脳裏に描がけます。このささやかさから逸脱する宗教は、欲望の淵にはまり込む道しかありません。 |